門馬尚経

民友の前身「福島日報」「東北民」を経営
門馬尚経は相馬の玉野出身

大隈重信の改進党から、福島五区選出代議士となったのが門馬尚経だ。のち憲政本党から再選された。門馬は嘉永四年に相馬郡玉野村に生まれ、戸長兼学区取締・県御用掛・文部属などを歴任した。
明治三一年の第五回総選挙で、双葉(標葉町高瀬)出身の愛沢寧堅を破って当選。代議士を二期つとめた。大正四年七月二三日福島市で死去。移民斡旋の仕事をしていた。
門馬尚経は福島日報を経営していたが、これを退いて新たに「東北民社」を起こした。この「東北民」は福島民友新聞の前身とされている。福島日報はそのご明治三二年日刊となったが半年で経営困難となり、福島民報に合併された。(県史20巻)
福島民友は、民報から離脱した一派が明治二七年に「福島実業新聞」として創刊した新聞の号を継いで「東北実業新聞」「福島日報」「岩磐新聞」「東北民」と題号を変えながら、明治三二年に誕生した。女性が自分の年齢を若く「さばを読む」のとは反対に、新聞は創刊年次を古く言うために、号数を引き継いだ。
原町市史続編(昭和五六)の担当者に筆者がインタビューした折に、「門馬尚経という原町初の代議士を発見したのが功績だと自負している」と語っていた。驚いた。原町市史(昭和四三)に、門馬尚経は原町出身と記してあるので誤導されたのだろう。どのような根拠なのか知る由もない。相馬の玉野と原町はまったく別な地域なのだが。「福島県史第二○巻文化編」は昭和四○年にすでに出版されて門馬尚経の名前もちゃんと載っていたが、原町市では誰も県史を読んでいなかったのだ。
福島民報社が出版した「福島大百科事典」にも、初期の民報を救った財政と経営の恩人二代社長松本孫右衛門の項目が存在しない。巻末の人名索引件名のみだ。孫右衛門の略伝を写真付きで紹介しているのは何故か民友社が発行した「県民百科」の方である。「福島百年の人々」という民友の伝記集を引用したようだ。その民友にして平成七年の「百年史」には、大事な民友直系の祖先の一人である門馬尚経の名前が誤って「尚径」と繰り返されている。
両名がいなければ民報も民友も今日存在しなかったろうに。
ともに、恩人である先祖の徳は忘れられる運命なのだろうか。
(「相双のジャーナリスト群像」政経東北2001.5月号)

東北民と民友をつないだ門馬尚経

福島日報を経営していた門馬尚経が、同紙をしりぞき、新たに東北民声社を起こし、「福島日報」の号を次いで明治二十二年(一八九九年)一月十五日から「日刊新聞福島日報」を発行した。しかし、「福島日報」は半年で経営難に陥り、十一月十四日をもって「福島民報」に合併することになった。(1158p県史20文化)

評価

「政友会」相馬双葉の政界p886
相馬双葉には明治十五年改進党創立当初より門馬尚経の率ゆる改進党の一派あつたが殆んど問題でなかつた。

もちろん、政友会にとってのちにライバル関係にあった門馬尚経を歯牙にもかけぬふうに、こう評価して断ずるのは立場上当然であろうが、刈宿愛沢ら英雄たちを称揚するための、これは出汁にされた修辞であることも指摘しておこう。

「立憲改進党の活動と思想」安在邦夫 校倉書房
43 1882 明治15年6月26日、京橋警察署に出された「立憲改進党員名簿」116名中、福島本籍のものは、服部誠一、門馬尚経、恒屋盛服と、いずれも士族出身の三名であった。
62 門馬尚経等の尽力で石陽社をひきつぎ第二瓔鳴社を設立
65 第21学区取締門馬尚経の発生せるものにして
66 1881年 明治14年末頃には、主唱者たる門馬尚経が県官を辞任や教員の異動により衰退
72 15年11.26-27門馬尚経ら来棚 懇親会 福島 喜多方事件
74  警察の上申書
75 相馬地方迄漫遊の筈なり 三島通庸代理 宛 東京横浜毎日新聞
186 28日 第二回農民蜂起いわゆる弾正ヶ原事件 (門馬尚経は)タナグラを立つ

明治31年
3.11. 相馬進歩党と自由党
旧行方の西方治氏等が進歩党を脱したるは旧行方より県会議員一名をも出さざるの不公平を怒りたると中学校問題に付ては自然反対の地位にあるが為めならんか只氏等は将来厳正中立を守る実業上に勉強すべしといふ

3月11日福嶋新聞
門馬尚経君ヲ本県第五区ニ推薦ス
双葉郡新山村大字新山
進歩党双葉郡支部
3月17日福嶋新聞
第五区各派の得票
門馬尚経
3月19日 福嶋新聞
門馬尚経 1817 進歩党
次点 愛沢寧堅1472 同盟派
次点 室原重陽 180  自由党

明治36年8月29日 民報
○天下太平録  荷車を自分で挽へて薪炭を売って歩く門馬尚経のカカアは実に明治女丈夫伝(?)中のしろものであるがソレから見しや芸妓上りの河野のカカアなとは頭の上らぬこと数十等

第9回総選挙明治37年3月執行されたた同志は自由党未期(末期)時代より政友会の当時に至る迄同志先輩の為め奔走した。松本孫右衛門を擁立した本党では門馬尚経、安島重三郎、愛沢の三名を推し大混戦となつたが、松本は悠々当選し

第10回総選挙は同41年5月執行された、従来同区は相馬、双葉より候補者を出し、石城郡の同志は毎回応援してゐたので此選挙は石城より挙げることに議纏り柏原左源太を擁立した、本党より星一、愛沢寧堅、門馬尚経の三名立候補しも猛烈なる競争となつたが柏原当選した、

明治37年2月26日 門馬氏除名の申請
3月1日 愛沢寧堅・門馬尚経・下馬評
3月5日 県下の選挙と政党 得票一覧
4月2日 メキシコ移民近況

明治39年4月4日 メキシコ移民募集

明治39年4月18日 民報
○門馬尚経氏帰福  東洋移民会社重役門馬尚経氏はメキシコ移民募集の為め浜街道に出張中の処昨日帰福せり

福島新聞45.5.4. 門馬尚経氏の態度

大正2年福島新聞
10.16.門馬氏と教育事業 尚経

大正3年福島新聞
1.14.北海道移民増加 福島県117
1.18.連年の凶作にて移民団後援会
2.22.南米秘露国渡航
3.17.ブラジル移民の渡航 若狭丸十日出帆 門馬代理人は各代理人を代表して答辞を述べ
4.25.秘露国渡航に就て(九)
4.15.東洋移民会社の業務拡張 本県業務代理人門馬尚経氏は去十二日東京より近々当市に移住して十分出張所の移民事務を監督する事と成りたる由因に同出張所にてすでに「ニュカレドニア」及マカラテ移民の募集を了しに依り本日ペルー移民の募集に着手すと云ふ
4.22.森岡移民事務所広告

大正4年7月 門馬死去

ほぼ時を同じくして、元原町長の佐藤徳助も死去している。
二人の、地元での評価は明暗を分けている。

大正4年福島民友・民報

大正4年福島新聞 7.24. 門馬尚経翁逝去
7.25. 門馬尚経翁
7.28. 故門馬尚経翁(一)大野峯治
7.29. 故門馬尚経翁 二
7.30. 故門馬尚経翁 三
7.31.両議員の虫干し 門馬尚経翁の事
8.1.党員の義務か 故門馬尚経翁の事
8.1.  故門馬尚経翁5.
8.2. 故門馬尚経翁6.
8.5. 故門馬尚経翁7.
8.6. 故門馬尚経翁8.

8.12. 故門馬尚経翁9
8.13. 故門馬尚経翁10
8.14. 故門馬尚経翁11
8.17. 故門馬尚経翁12.
8.18. 故門馬尚経翁12.
8.19. 故門馬尚経翁14.
8.20. 故門馬尚経翁14
8.20. 故門馬尚経翁1
故門馬尚経翁

尚経書簡. 4通. 931. 94. 18

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