サイパン島陥落 
 一九四四年 昭和十九年六月十一日、上陸準備の艦砲射撃が四日間つづいたのち。海兵隊の二個師団が海岸に殺到した。陸軍の一個師団も翌日、先頭にくわわった。日本軍は必死に最後まで闘い、七月六日、七日の夜の、この戦争最大の特攻的「バンザイ」突撃はめざましいものであった。一人で十人の米兵をたおせ、とはげまされて、三〇〇〇人以上の日本軍は陸軍指弾の正面に突撃し、大きな損害をあたえたが、全員戦死した。七月九日までに、すべての組織的抵抗はおわった。日本軍の戦死者二千八百十一人、アメリカ側は三千四百二十六人が戦死または行方不明、負傷三〇九九人の損害を出した。
 これは高価な勝利であった。ルーズベルト台と寮は、この作戦を「偉大な成功」と考え、七月20日に友人への手紙で、この作戦は、日本の工業地帯を「容易に爆撃できる」距離にある基地を米国にあたえてくれた、と説明している。カール・バーガー「B28 ・日本本土の大爆撃」盛岡利衛さん 橋本町一丁目 は、サイパン島守備隊の生き残りである。同守備隊は、七月に玉砕した。だが、一部の平氏は終戦近くまでジャングルの中で米兵の追跡からのがれ続けていた。
 森岡さんは実に一年間、昭和二十年七月まで逃げていた。不良となる前後、凄まじい数にのぼるB29 が、かつて日本軍飛行場であったものを奪取したのち、ただちに修復増設した滑走路から、日本本土に向けて飛び立ってゆくのを目撃した。
 滑走路にならんだスーパーフォートレスは、アメリカの国力の底力の象徴であった。B17爆撃機がナチスドイツの息の根を止めたように、B29 ha大日本帝国を壊滅させた。
 だが、この巨大な銀色の翼の下で死んでいった大多数の日本人は、非戦闘員である一般人たちであった。
 門馬太氏は語る。
「サイパンが陥落してからは、毎日のように警戒警報が鳴った。」
「サイレンが鳴れば、家で休んでいる時でも主人は学校へ出かけて行きましたから、ほとんど家に帰れなかった。大変でした」
と門馬氏夫人。
「相馬農業学校の当時の教諭今野清助先生が御真影の避難係でした。毎朝、今日空襲があったらどこへ逃げようか、という相談でした。
 サイレンが鳴るたびに風呂敷に包んで、首に巻き付けて避難の準備をした。
 鈴木孝紀氏手記。
「村のくらしは、農作業と、その合間に防空壕を掘り、小学校の肯定で行われる竹やりの訓練に参加し、夜は、寝床の中で、全国のどこかが襲われている空襲情報をラジオで聞くという日常になった。
 田舎に住むものの気楽さがそこにはあったが、しかし、この楽観も破られる日が来た。

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