昭和24年 下山事件と木戸駅

 雨脚が強まっていた。1949年7月6日後zん6時。木戸駅のラジオから流れるトップニュースは、下山定則・国鉄総裁が消息不明となり、常磐線綾瀬・北千住駅間の線路上で轢死体で発見された。世を騒がせた「下山事件」である。
 「他殺か? 時が時だけに国警本部に捜査本部を置き徹底的に取り掛かることになった。死体は五百米に亘ってばらばらに四散しているとのこと。重大なる事件である。背後関係にある人物が相当智慧があることは事実である。首切りの旋風は当局側を振えあがらせたことであらう」
 金成ならずともほとんどの国鉄職員が「他殺」と思った。行政職員を削減する行政機関職員定員法の施行は六月一日。国鉄は七月一日、五十万職員うち九万五千人を整理する方針を組合に伝え、一部の職員に通告を開始していた。
 「おい。下山総裁をひいた貨車、うちの引き込み線に止まってるやつでねえかい」
 駅長が青ざめた顔で言った。総裁をひいた機関車の車体番号は「869」。しかし、それを知らされていなかった木戸駅では六日夜、金成らが機関車が牽引していた貨車8両を切り離し、引き込み線まで手押ししていた。金成ら三人があわてて確認に向かった。
 ト2641車の北側側板に血痕及び肉塊が付着していることを発見。まざまざと目の前に見る油脂の粘着する惨状。肉塊も黒くしなびて見られた。直ちに富岡署に連絡、刑事が肉塊を持ち去る」
 前から五両目の車輪や貨車のすきまに数センチほどの肉塊がびっしりと食いこんでいた。昨日の雨にもかかわらず、側面には血のりの跡が残っていた。金成らは落ちていた棒をはし代わりに肉塊を集めた。GHQが放出した魚の缶詰10個分にも及んだ。のちに警察の鑑定で「下山総裁の肉片」と確認されるが、事件は「自他殺不明」のまま迷宮入りする。
 47年5月、日本国憲法施行。戦後の日本を形成する最大の出来事である。労働者には組合結成が認められた。世は物資不足による激しいインフレで、賃金上昇が追い付かず、労働者はいらだち、コメを安価で買いたたく政府に農家も反発を強めた。賃金、米価の引き上げなどを主張する共産党、社会党への支持が急速に広まり、GHQのレッドパ―ジ(共産党員追放)が先鋭化していった。
 「下山事件」や国鉄三鷹駅で無人電車が暴走、6人が死んだ「三鷹事件」(49年7月15日)はその流れの中で起きた。県内でも福島市の松川駅付近で機関車が脱線転覆した「松川事件」(同8月17日)、常磐炭鉱労働者の首切り問題をめぐってフら(いわき)の群衆が警察署になだれ込み、署長を監禁した「平事件」(同6月30日)が起きている。
 「ついに暴力革命来るか?」
 「日本も共産国家になるのか?」
 そう感じる国民も多かった。

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