被災から帰宅まで
私は、3.11大震災に仙台の東北学院大学土樋キャンパスの会議室で遭遇した。大学を定年で去る私を含めて8名の名誉教授への推挙が審議されていたが中止となり、道路一本隔てた東北大学片平南キャンパスのテニスコートに頻発する予審を不気味に感じながら避難していると、午後4時頃に自宅のある相馬市海岸に7.3m(相馬港の検潮計に記録された数字で、目撃者はそんなものではなかったという)の津波が襲来したとの情報が入った、その瞬間、私の頭にひらめいたのは、さきに述べたあの津波のときの黒き諏訪神社のいちょうの木への繋舟伝説が本当だったんだということであった。

南相馬市の原町駅前の市民交流センターでの岩本由輝氏による連続講演を聴いている。氏は歴史が専門だが、相馬の人で、口承の歴史的記録をも視野に含めた郷土史に詳しい。

また日本の科学界の指標である理科年表の編纂で、過去の津波被害の記述から「口承」記録が削除された経緯を考察してもいる。意図的な慶長津波の矮小化の跡を検証した。

大熊町の町史編纂にもかかわり、もっとも至近距離で原発建設と原発事故をめぐる地元の当事者である町当局トップの「気分」についても記録した。

浜通りの地元の郷土史を読破している時に、大熊町史の原発の記録だけが、厳密な検証としての後世から読むに耐える内容であると思った。多くの印刷物が原発が郷土の明るい未来を開く科学技術と国策の勝利と手放しで賞賛する記述であるのに対して、大熊町史だけが、原発に批判的な調子がすぐに読み取れたからである。

いったいだれがこれを書いたのだろう? と長い間思って来た。岩本氏の講演に出て、いちばん最初に尋ねたのはそのことであった。氏の答えは、氏こそ、その筆者だった。

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