ドキュメント相馬野馬追 56 相馬の武士道

 旧年のNHKの最も視聴率の高かった大河ドラマ「独眼流政宗」の主人公政宗は、戦国の武将としては千両役者の一人である。小藩の相馬の歴代藩主が歴史の表面に出るのは、この強烈な光源に照らし出される時だ。
 長門国守相馬義胤と政宗との絡みについては、新井白石の「藩翰譜」に詳しい。
 上杉景勝が挙兵した折、大阪にいた政宗は本国へ急行した。家康から、景勝を討てとの命を受けたのである。
 白河から白石までは敵中で道が塞がっている。常陸の国を廻って磐城相馬までさしかかった。最後の難関である。
 相馬は累代の敵である。みちのくの英雄政宗がついに屈服させることができなかった相馬は、小藩といえどもあなどりがたい。
 政宗という人は、その波乱の人生の中で幾度となく数奇な運命の局面を迎えては、劇的に切り抜けている。ドラマチックな場面になればなるほど、その行動派さえわたる。芝居がかったような人物である。
 伊達者あるいは伊達男の言葉を生んだ男ぶりの元祖である。
 五十騎だけを引き連れて相馬の南境に着くや、使者を立てて、
 「この度徳川殿上杉を征伐したまふに因りて、政宗 搦め手より向うべき由をうけたまはりぬ。路次既に塞がりて候ひし 程に従ってやうやうこの境に至り侍りぬ。余りに道を早めて打ちしほどに、士卒ことごとく疲れぬ。願わくは城下に旅館点じらんには、馬の足を休めて明日は国に入らんと存ず」
 と伝えさせた。
 相馬義胤は、しめた、と思った。これで政宗の運も尽きた。伊達は相馬の年来の敵だ。これまで同胞の尊い血を流されてきた。その敵の大将が今ここにいる。今宵夜討ちをかけて、やっつけてしまおう、と。家来ともども夜討ちの謀議の相談していた。
 そこに水谷式部という人物が、はるか末席から進み出て、申し上げた。
 「末座の意見恐れ入りて候へども、既に詮議の座につらなりて候ふ上は、心に存ずるを申さざらんはその詮もなし」
 以下は水谷の発言の要旨である。
 そもそも窮鳥懐に入るは猟者もこれを殺さず、と聞いている。政宗ほどの大名が、年来の恨みを捨てて義胤公を頼って来ているのに、これをだまして夜討ちにしてしまうというのでは勇者の本意ではあるまい。わが城(原町市牛越)から政宗の所領の国境駒ヶ峯までは、わずかに三里(12キロメートル)。今日中に通過しようと思えば出来ないことではないのに、わずかの手勢で相馬の領地に泊まりたいというのは、深謀遠慮があってのことであろう。ここは敵といえども無事に本国へ帰してやり、後日合戦する時あらば、正々堂々と戦って勝負を天運にまかすのが武士の道であろう。云々。」
 満座の者は、この崇高にして道徳的な意見に感銘して同調し、一転夜討ちは中止。
 政宗に宿を与えて、かがり火を焚いて警備し、その命を守った。
 戦国時代の力学は、人間不信と自力信仰の土台に成り立っている。武士道などというものは、その後の整備された武家社会の支配道徳なのである。
 
あのころ(新聞連載の頃)は、翌年に大河ドラマ「伊達政宗」を控えた年であったので、政宗に絡めて相馬藩でもっとも有名な戦国時代の義胤を描いた。

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