開戦の年の野馬追と天皇

昭和十六年は太平洋戦争開戦の年だ。
この春四月、興亜馬事大会が代々木練兵場で開催され、日本を代表する馬事イベントが天覧に供され野馬追も参加した。これは世に上京野馬追と呼ばれるもので、総勢百三十五名と百頭の馬が出馬した。
神旗争奪戦が十七分間行われ三発の花火が打ち揚げられた。最初の花火が上がるや天皇は玉座から立ち上がり、手摺に乗り出して御覧になった。
時に天皇四十歳。
かつて父大正天皇が東宮であった時に、明治四十一年十月に雲雀ヶ原で台覧した。また昭和天皇が大東宮だった正七年の野馬追の時には、東北巡幸の帰還、御料車の中から沿線に隊列を組んだ騎馬行列を原町で見た時から、二十三年ぶりのことであった。
この夏の祭は豪雨に見舞われた。
中村、原町、小高ともに傘、傘、傘の異観であった。
この年、野馬追は原町憲兵隊によって写真撮影が厳禁された。隣接する陸軍飛行場が軍事機密だったからだ。
しかし録音は可能で、この夏もHK仙台放送局が録音隊を乗り込ませ、十二日録音し、十五日夜八時四〇分から十分間、夏の納涼プログラム番組として、相馬野馬追は再び全国にラジオで紹介された。六月、産業報国原町支部が結成され、二千人が町内を行追した。
十二月八日には、国民は対米英の開戦をラジオで一斉に知った。朝から鎮守三島神社に堀川一成町長はじめ、町議、隣組長ら多数が参列して、戦勝祈願祭を執り行った。
八月、原町競馬は財産処分され、出資者に清算金が支払われ、廃止された。

 

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