83 郷大将
 中ノ郷の郷大将は荒末松。大正八年八月に鹿島町海老の農家に生まれた。六十はっさいである。父親は長男だったが妹に家を譲り、明治時代に鉄道夫として原町機関庫で石炭担ぎをしたこともあるという。進取の気風があったのだろう。原町は明治三十一年の機関庫開設から開発された新興の町だ。
 末松少年にとって、馬は身近な動物だった。裸馬に乗って遊んだという。
 昭和十一年に十七歳で軍隊を志願した。終戦までの十年間に、すっかり中国通になった。兵隊になったのはそもそも「腰に刀を差してみたい」という動機からだったという。
 馬と加担ア。野馬追には最初から縁が深かった訳だ。
 野馬追出馬は昭和四十年から連続二十二年になる。昭和五十三年から七年続けて侍大将となり、小野田英雄の後継として郷大将に就任した。
 「そりゃあ気分のいいもんだよ」
 幼時からの願いが叶って刀を差すことができた。しかも郷大将にもなれた。
 そのうえ総大将の分身として青の母衣を背負う。この地に生まれて、相馬の野馬追で対象になる。この上もなきいい思いである。
 「名誉職でもなけりゃやれないね。わしゃ釣りぐらいが趣味でゴルフもやらんから。好きじゃなければとても野馬追には出られませんよ」
 一回の出馬で二十万円から三十万円かかるという。色々の席に招待されて顔を出す機会だけでも数知れない。しかも名誉というのは高価につく。
 この七年間、同じ馬に乗っている。石巻から阿部某という樵の夫婦が、毎年妙見様へのお参りを兼ねて荒家へ馬を連れて来る。妙見様は馬の守護神でもある。阿部夫婦は材木挽きでの自己がないのも妙見様の利益だとする。
 「そりゃあ自分で飼うのに比べたら安いもんですよ。手入れはいいし、実にきれいにして連れて来てくれる」
 レンタル料は十万円也。馬の世話は馬喰にまかせる。
 馬との相性というのがある。
 「馬ってやつはね。初めて乗る人間だなって思うと根性を見る。立ち上がったり首を曲げてじろりと乗り手を見たり。一年目は言うことを聞いてくれない」
 故伊賀敏(元軍師)や舛田忠二郎(副軍師)らと大正生まれの同士で「大正会」を結成して気骨を語り合ってきた。
 「昭和生まれにはわからんでしょう。わたしは突撃ラッパで何度白兵戦をやったか分からん。殺すか殺されるか。そういう弾丸の飛び交う下をくぐってきた。だから螺役の重要性というのを主張しているんだ。式典の礼螺ばかり吹き鳴らすんじゃなくて、集合から出発、突撃まで螺で合図する。大陸では無線なんか役に立たなかった。ラッパ一つで戦闘してたんだよ。螺というのは、ありゃ突撃ラッパなんだ」
 「たいせつなのは無形文化財を、いかにして我々が昭和生まれの次代へ譲って残すかということだね」
 青年会議所なんかがよく後押ししてくれるので、のこの一、二年で野馬追はだいぶよくなってきたと思う。侍は偉いものだけど、完全に野馬追法則を守って、きれいな野馬追うをやらねばならない。今のような時代だからね。観光客にも見てもらう郷里の祭りだ。昔と比べて規律あるすがたを見ると、これなら残る。あと千年は残せる、と思うよ」

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