久保田直衛自伝「鉄輪きしりゆく」
p71 八 磐城太田駅長時代
 昭和26年3月の定期異によって、その月29日付きで磐城太田駅長を命ぜられました。磐城太田は浜通り北部の太田川中流域に位置し、原町の南部の一地区でその頃はまだ大甕村の時代でありました。駅の南部を東流する太田川の沖積地に水田の囲まれた駅でありました。また行方八社といわれる式内多珂神社は駅のすぐ近くで、有名な太田妙見神社は西北二キロの地点にあります。私は前任地の末続駅長時代と何ら変わる事なく単身で官舎に住み、駅に努める毎日でありました。この駅での駅務のきびしさもさる事ながら、本来の駅務以外の組合対策に連日のように悩まされました。現場協議会と称する会議が職場の改善を要求して、何回も決議をつきつけてまいります。非番も休みもなく個所長としてその対策に追われる毎日でありました。
 定員法による人員整理後のレッドパージ反対集会・下山国鉄総裁の轢死・無人電車の暴走・そして松川事件と相次ぎ、騒然たる世相でありました。磐城太田駅の在任期間は思いのほか長く、二年四か月でありました。

注) 久保田氏は昭和30年に国鉄を退職。

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