農道に埃を舞い上げて進駐軍のジープがやってくる絵のイメージがある。
 現代史の官軍は、やたらと足の長いアメリカ軍兵士なのである。ただし、私がもっぱらイメージとして〇〇画を仕入れた先は、大江健三郎の初期小説なので、我が町の歴史にかかわりない。イメージとしての占領軍が、それでは現実にわが故郷にやってきたのは何月何日であったか、わが町の先人たちは何も残しておいてくれない。
 キャンプをたたんで町を出て行ったのが、何月何日なのかもわからない。
 その間、どんな事があったのか、最近聞き知ることは多いが、正確ではない。
 しかし、結論や総論で軽く片付けられてきた「歴史」の、実はデテールをこそ知りたいのである。雑多で卑近な事実の中にこそ、私の判断すべき材料があるのだと思う。
 だから、かえって史料とならず、明治よりも見えにくい戦後に、敢えて私は興味を持つ。
 戦後に多感な少年期や青年期を送った人々は、現在黙々と社会の各層で働き続けている。ふりかえってみたり、客観視すべき対象であるよりは「戦後」は、しかし今やみずからの経歴を区切らねばならぬ時を迎えているのではないか。
 「戦後」も、既に歴史である。

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