野馬追の紛擾 祭典延期論者の大立腹

相馬野馬追祭の十四十五十六の三日間の延期したる事は既記の如くなるが元来同祭典に就ては代議士半谷清寿氏を始め原町佐藤徳助同政蔵氏を十月に延期し 今上天皇陛下の未だ東宮に在しませし当時台覧の光栄を得たる日に執り行はんと再三軍者会義を開きて略ほ決定したるに独り太田神社神官は中村小高両神社神官其他に反対し原町の一部商略家と結び延期絶対に反対を唱へて遂に例年の如く十一十二十三の三日間に執行する事となりしも故有栖川殿下の薨去御発喪と共に歌舞音曲中止となりし為め周章狼狽し原町のみにて決定祭典延期を発表し中村郷小高郷の北の郷とに通牒したるより各郷の立腹見物人の落胆一方ならず中村郷北の郷よりは十一日午後原町に来り祭典準備委員等に交渉し同町非延期説を言ひ張りながら今更専断に延期したる不法に対し無期延期を主張し頑として応ぜられしが原町委員等の口叩陳謝に依って一先づ落着するを見るに至り明十四日より発表通り祭典執行と決定したるが一時は却々(なかなか)悶着なりし由実に苦々しき事と云ふ可し

大正2年7月13日福島民友新聞

半谷清寿が民政党系の代議士であったため、政友会の機関紙だった福島民報ではなく、民生党系の福島民友新聞に半谷清寿の主張が中心的に報じられている。

こんにちの商業新聞のように、明治大正の新聞は政治的中立ではなく、明確に政党の機関紙として出発した。

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