たった一人の東北論 半谷清寿「将来の東北」から
月刊「政経東北」二上英朗 1986.5月号

半谷清寿とピアソン西洋人商社マンのピアソンの右に魁偉なる清寿

プロローグ
今から四年前(1982年)、新世紀の日本再開発の夢を担って、華々しく登場した東北新幹線開通のニュースは、良くも悪くも暗示的であった。
昭和四十五年(1970年)に、新全国総合開発計画(新全総)の目玉として公布された全国新幹線鉄道整備法に基き、翌年十月に着工。
着工二年目の昭和四十八年(1973年)、石油ショックの波をかぶり、難産した未来へのルートは、いわば列島改造の最後の落し子であった。
国鉄本社が東北新幹線の愛称を募集したところ、圧倒的に多く「みちのく」という名前が寄せられた。
結果は「やまびこ」「あおば」に決定したが、国鉄主脳の配慮により「みちのくには暗いイメージがあるので命名からはずした」という談話を新聞で読んで暗然としたものだ。
みちのくイコール低開発地域、要開発地域というワンパターンでステレオタイプの思い込みがそこにはある。しかし肝心の東北の庶民にとってさえも「みちのく」という言葉に、暗いイメージなど抱いてはいない。
そもそも中央の広告代理業者が宣伝する「みちのく」のイメージは最初からマイナス要因を持たせていないし、東北の住民にとっても、大自然に恵まれた別天地あるいは一つの理想郷なのである。
東北といい、みちのくといい、言葉の発祥としては「未知なる領域である丑寅の方角」であり、「毛むくじゃらな野蛮な異民族の住む土地」であり、「文明を伝える道の彼方」であったとしても、今や東北の住民の意識に、自分の住まう場所が、太古以来のものなどとだれが思うのか。
それが証拠に「やまびこ」などという抽象的で個別性のない、どこにでもあるようなネーミングをはるかに超えて「みちのく」という名前が国鉄本社には東北自身を含めた国民多数から寄せられた。庶民は、限りない愛情をこの「みちのく」という言葉に託していたのであった。
東北の謳い文句、たとえば、日本の未来を担う食糧基地東北とか、二十一世紀のエネルギー基地東北とかを、東北の住民でさえ本気で思いこんでいる。まるで東北の実態は、国鉄主脳や通産省などのお役人や広告代理店の企画担当者の頭脳の中にあるようである。
巨大な図体をして頭が空っぽ。我々が、彼らから頂戴しているお仕着せは、そのようなものだ。
東北は東京の精神的ベッドタウンである。眠り続ける獅子なのか、ブタなのか。

東北論を求めて

昨年一年間にわたって、つとめて書評欄の「東北論」と、各論を読み続けてきた。
成功している良書もあったが、「これが東北だ」と叫ぶだけの、悲惨な現場レポートに終始するものもあった。
唯一水準を飛び越えていると思われたのは、福永書店刊「対論東北論」であった。
ただざんねんなことに、このすばらしい東北論は、東北にいずれかの理由によってゆかりを持つ、それぞれの学者の対談集で、その意味では「実践なき正論」である。
対照的な位置に、東北人による東北論とも言うべき著作もあるが、これもまた悲劇的なほど実証的で、かつ論としてジャンプする力を持たず、かつての東北の閉鎖性を後発するドキュメントにとどまっている。
現代において発表される様々な東北論を読んでみても、そのほとんどは東北と云う地域に限った現象を集めただけの著述であり、歴史をなぞりながら、東北で起こった出来事というだけの、舞台としての東北でしかない。東北が、という。「主体」としてとらえた論は皆無であった。
ただわずかに、多くの論者が一様に、宮沢賢治の思想なり著作なりに宇宙論を発見し、「東北論の可能性がここにある」という指摘を行なっているのは面白い現象だった。同じことが安藤昌益にも言えるだろう。
ただし、賢治にしても、昌益にしても、狭く東北論に限られたエネルギーではないので、それにあやかる多くの在京の学者諸氏が、綿密な解説や解釈をこねあげて、新興宗教のごとき新教義を確立し、自宗としてテラ銭をかき集めているという図になっている。
高野ついていない素材はないか。鵜の目鷹の目で、地方にやってくる学者の多くが「東北の可能性」などと言うたびに、彼等とバビロンのごとき東京のエネルギーの枯渇が思われる。

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