85 藤田魁 幼時からの夢
 藤田魁の先祖春近は、伊達郡国見町の藤田城主といわれている。故あって天文の頃、相馬に移って十五代の盛胤公の愛顧を受けた。
 魁の伯母は、魁の家のある太田村の南隣小高町の阿武隈山の地山寄りにある木幡という旧家に嫁いだ。この木幡家は六代重胤公が相馬に下向してきた時に、お供してきた重臣の一人。
 魁の幼少期に、木幡の家では農馬と競馬用馬をあわせて六頭も飼っていた。魁とは同年配の従兄弟がいて、これが大の馬好き。魁が遊びに行くと、必ず馬を出しては一緒に乗せてくれた。魁は、はじめは怖かったが、次第に面白くなり、ついには病みつきになり、乗馬が大好きになった。
 木幡家の床の間には定紋入り鎧櫃が二個ならべてあり、長袖には銀象嵌の鎧が三組あけられていた。
 そのほか、座敷の鴨居の上には槍や薙刀も並びかけられていた。毎年の野馬追には祖父、父、長子と三騎馬が打ち揃って出陣し、その帰りには必ず藤田の家に寄っては祝酒を飲みながら手柄話を聞かせてくれた。
 その頃、魁の家には馬もいなければ馬具もない。廃藩の当時、みんな売り払ってしまったからである。
 屋敷内のそちこちに繋がれた馬が嘶く庭には、三本の指旗が風に靡いている。座敷では老いた武舎、壮年の武舎、若武者相い寄って今日の野馬追話に花が咲いている。
 魁はとよく考えた。
 「おれが大きくなるまでに何とかして野馬追道具を買い求めた上で、この伯父や従兄弟たちのように甲冑騎馬姿でお祭りに参加してみたい」
 後年、藤田魁が著作の「相馬野馬追小考」の中で一思い出話として、こう書き残している。幼時の思いは、やがて実現する。まして、伝統の継承と野馬追研究に関しては、現代にあって先駆的な役割を果たしている。
 藤田魁の初出陣は大正八年。二十二歳の時。
 その頃には、藤田家でな中半血種の三歳馬を飼っていた。ただ、まだ甲冑も馬具もなかった。どうして二領もあった鎧を無くしてしまったのかと無念きわまりなかった。村内の旧家に行って借りることを乞うた。着想の仕方を教えられて、親には反対されたが、ついに幼い時から夢に見た野馬追に初出馬したのである。
 魁自身が書き残した記録によると、当時の野馬追は次のようなありさまだった。
 「騎馬連中の空気は極めて殺伐で、宵乗り競馬にしても、審判席の櫓の前での喧嘩は絶えなかったし、神旗争奪戦にしても鞭での殴り合いで流血の惨を見る事は日常の茶飯事であったから、余程の剛毅の者でないと、なかなかこれらの協議に参加する気にはなれなかった。私は急逝中学、師範学校時代、剣道の選手として随分に鍛えられたほうなので、そんあ事など屁とも思っていなかったから、もちろん競馬にも出場したし、争奪戦にも進んで参加し、何とかして入賞したい、神旗も獲ってみたいと本気でかかったが、僅かに二度旗を獲っただけで、あとは遂に入賞はしないでしまった。」

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