志賀照雄さん

志賀照雄さん(当時四一歳)は、機関区の検査掛の資格を取得して、勤務にあたっていた。
その日の朝は、群がるような空襲が来た。志賀照雄さんの夫人ホシノさん(旭町四丁目)は当時を次のように回想する。
「今のこの家は、昭和五年の正月に普請したて越してきたのです。駅に近いですからね、便利なんですよ」
「あの空襲の時には、生きた心地がしなかった。駅と機関区の方が狙われて、ちょうど家の真上あたりに敵の飛行機が急降下してくるのです。sのたびに、ぐらぐらと家が上下に揺れて、廊下のふすまや障子がはずれてしまう。駅の方から、爆発した大きな破片が庭先まで飛んで来て落ちるのです」
「駅に勤め始めたばかりの息子が(一雄氏・当時一八歳)家に駈けてきた。
「母さん機関区がやられたよ。倒産のところへ行ってみたほうがいい」と言います。私も気が気でないから、夢中で走ってゆきました。機関区へ行こうと、構内を渡って半分位行くと、向うから機関区の人がやってきて、そして私の両肩に手をあてて、「残念だ。残念だ。志賀照雄君が防空壕でやられた。」といいます。防空壕ごと直撃弾が爆発し埋まっているというのです。」
それから今度は、そこからまた戻って、近所の伯父の所へ走って事情を説明し、埋められた人たちを掘り出す手伝いに行かなくてはということになりました。けれどもその時また敵機が激しく機関区を襲いだして、すぐには近づけなかった」
「みなさんが掘り出されたのは、午後の三時過ぎか四時頃になってからじゃないでしょうか。最初に出たのは二上さんでした。二上さんは助かった。よかったって喜びました。渡辺病院に運ばれましたが、そこで亡くなられた」
「うちの主人は、たしか三人目だったと思います。体は、頭から足の下までありました。腕がもぎれるとか、首がないとかいうのではなかった。でもね、何か形見にと思って、身につけていた筈のビーズの財布だけは取っておこうと思って、私、主人の体をすこしいじったんです。その中に印鑑とか大事なものが入れてありましたものですから。涙は出ませんでした。そんな気持ちの余裕はなかったのです。ただ、もう、びっくりしてしまって」
「主人に触ったとたんに、背中からざあっと血が流れだした。はっとしました。表面がそっくりしていても、内臓はめちゃめちゃにやられていたんですね」
助役の小林安造さんは、壕の中でしゃがんでいて鉄かぶとをかぶっていたが、爆風で頭に損傷があった。
酒本幸蔵さんは、最も激しい状態であった。肉片が飛び散って遺体の形をとどめなかった。右腕が一本残っただけだった。
上半身が地上にあらわれていた高橋直さんは胸がつぶれて肋骨が全部こなごなに折れていた。
五人まではベテランの機関区員で、それぞれ三十四歳から四十六歳までの働き盛りの者たちであった。もう一人の犠牲者新妻嘉博さんは十六歳の少年であった。
新妻さんが最後に防空壕に飛び込んだあとに、敵機の攻撃が来た。
防空壕には十人いたが、出入り口近くの四人は助かった。残りの六人が、壕の中央にいた。
「検査掛の防空壕は、構内にあるも同然。もっと遠い所にあったら助かったかもしれないのに、なぜあの日に、あの場所で死ななきゃならないのかと思ったりする。運命という言葉で片付けてしまうのは、かわいそうすぎる」
志賀ホシノさんの言葉は重かった。

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