原町尋常小学校日誌 大正15年3月10日 第一校時が約廿分の陸軍記念日にちなんだ講話をして午前中、三時間の普通授業を終えた後に、原町座で乃木希典大将の映画を鑑賞、

12月9日東京新聞
原ノ町小学校に通ひ出した頃、盤雄少年はもう平泳ぎでは他に負けなかった。中略 小さい時から無口だったこの子は、その「不言」の一方で「実行」の性格をこの水泳鍛錬の中に養ひつつあったのである」

10月30日 読売報知
中野少年6年生の時の担任 植松先生の談。戦死当時は石神第二国民学校訓導。
 中学に入る前三月ばかり私の家で事件始動をしたことがあるが、私が一寸席を外してみんなガヤガヤ騒ぐ時も、中野訓だけは一人でコツコツ勉強を続け、家内もその熱心さには驚いてゐた」

11月12日毎日新聞 母の言葉
 勉強の方も私の主義としてはやかましく言はないことにしています。これは 中略 小さい時にやかましくいつても駄目なものです。ですから中学に入る時になつたら、受持ちの植松先生のところに自分から夜勉強に行くやうになつたのです」

12月9日東京新聞
 中学への受験準備のため、毎夜五、六人して受持だった門間先生のお宅に集り、勉強をつづけてゐころ、誰か来ない者があると直ぐ飛んでいって理由を尋ね、勉強疲れや風邪などで休んでゐるのだと知ると、次の日から毎日見舞っては休んでゐる間のことを色々と伝へたりした

優等生で小学校を出た彼が、隣り町の中村にある相馬中へ入ったのは昭和十二年、事変勃発の年であった。中略 野馬追ひの原ノ町に育った彼が、新しいその環境と、新しい時代の息吹きをどう感じたかは想像に難くない。
遠泳への精進の一方、彼は機械体操に一しほ身を入れ出した。マラソンも始め、冬は古城のお壕でスケートもやった。「あいつは平田員費なるつもりなんだ」と友人達は早くから噂したが、当人は既に飛行機に乗る決意で機械体操をやり、航空雑誌を熱心に読み出したのである。数学も一生懸命だった。二年から三年に進み、さらに四年生になったころ、家では無口な彼が友人間では盛んに戦争を論じ出してゐた。
「俺は飛行機に行く」ハッキリと彼は友達に語った。「あれは自爆型だ」さういふ友達の批評が、いつかそれを何事も貫かねばなら止まぬ彼の仇名にしてしまった。かくて十二月八日は来た。彼が一生に一度、慈愛深い母に反逆して予科練を志願する時がやって来たのだ・
 一度は反対した母も、無口な末子の堰を切った熱弁と涙には直ぐ折れた。十七年の春、見事合格した時、嬉しさうに口笛を吹いて踊るやうに二階へ上って行ったのをひでよさんは忘れることが出来ないといふ。かうして派手嫌ひの盤雄少年は、見送りも断って土浦へ進発して行った

担任の植松先生
10月31日 読売報知 福島版
 中野は一年生から卒業まで私の担任だったが、いつもニコニコしたおとなしい気品のある生徒だった。下級生にも親切で、帽子の襟章が曲がってゐたりすると、静に注意して自分から直してやってゐた

佐藤清
 成績は普通だったが数学が得意で、通学の汽車中、私もよく判らないところを聞いたものだった。友達には情誼が厚く、みんなから絶対信望があった。鮎釣りが好きだったが、こればかりは下手の横ずきだったやうだ

同学年別組の林宗男先生は
 19.11月2日朝日 福島版
 友達と語る時も、先生と語る時も両頬に特徴のあるにこやかさを浮べて、明るい感を漂はせながら接してゐた。先生からは可愛がられ、級友からはよく好かれ、眞に中学生らしい中学生であった。在学中にも親友の多い生徒であったから予科練に入隊してからも上官からは可愛がられ友人からも好かれただらうと思ふ

12月12日毎日新聞 
盤雄が海軍に入るといふから、陸軍の方はどうだらうといふと、こんほ時ばかりは、”母さん、人はたたみの上でだって死ぬ時は死ぬんだよ”といふのです。”さうさう、さうだったナ”と素直に予科練受験を許してやったのでした

11月13日毎日新聞
盤雄は無口で粘り強い性格で、少年時代から荒鷲志願に燃え、県立相馬中学に入ってからは空の南郷少佐を慕ひ、大空で散ることを念願し、いつも口癖のやうに俺が荒鷲になればキッと殴り込みをやるといってゐましたが、本懐を遂げたとこの無上の栄誉を南の空で微笑んでゐることでせう

注。横須賀鎮守府人事部が「盤雄」と誤記したため、新聞はおしなべて「盤雄」と記述しているが、戸籍の名前は「磐雄」が正しい。中央紙にひきずられて、地方紙も「盤」の活字のままだった。

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