原町短波とその時代
昭和4年 佐藤一水、在米県人の移住史を出版

 本籍 相馬郡太田村益田字かやの木下百十一番地士族
 出生明治十二年十月十日
 住所 141 N.Chicago St. Los Ange1es,Ca1if.
家族 妻キミ、長男治之、二男米雄、三男泰之(在日本)長女雪妓(大正十年七月渡米)

 佐藤一水と常磐線乗車体験記

 佐藤一水という雅号については、活字媒体に最も早期に登場するのは、明治34年の民報に、開通したばかりの常磐線鉄道に乗った体験談を寄稿しているものである。ただし鹿島駅までのわずかな時間だが。文明開花の味を報告しているのだが、現在の目からふりかえるとほほえましいほどだ。一水は車中で文芸の仲間と出会う。若かりし日のわずかな消息である。
 すでに結婚して子供いたが、海外への夢たちががたく明治44年に単身渡米。工場労働者から雑誌記者・編集者になった。文筆が好きで、在米時代から俳句をよくした。
 移民同胞の記録を畢生のライフワークと考えて大著を遺している。

 佐藤安治の名を、初めて知ったのは、ニューヨークから相馬高校に英語教師として赴任していたジョージ・ローズを訪ねて、図書館の英語科教員室で彼を待つ間に、相馬市史の通史を読んだ時である。
 同通史は、海外移住していった相馬人の消息を、昭和初期の頃の特にブラジルとアメリカからの音信を伝えて擱筆している。ブラジルの渡辺孝と、カリフォルニアの佐藤安治がその発信者である。相馬市史は、これら海外移住者の個別の研究が今後の課題である、と述べて結んでいる。渡辺は大瓶村出身。相馬農業高校の図書館で、彼に関する消息を知り興味を抱いて調査を始め、すでに四度ブラジルに渡って調査し、その遺族にも面会し、関係者から克明な資料を貰っていた。しかしカリフォルルアの相馬双葉の出身者の消息について伝えてくる佐藤の名は初見である。アメリカに移住した相馬人の中で、原町関係者は少ない。その佐藤自身が原町(旧太田村)の人であるだけなのだ。その佐藤という人は、どんな人物なのだろうか。捜しているうちに、ついに彼の著書に出会った。

 太田村出身の佐藤安治
カリフォルニアの県人開拓史を発行

 昭和四年七月一日、太田村出身の佐藤安治が「加州福島県人発展史」を出版した。
著作兼発行人 佐藤安冶加州羅府東一街三〇三
印刷所 大黒活版所東京戸外渋谷町金王一
発行所は加州福島県人発展史編纂所となっている。非売品。

 その序文に、彼はいう。「加州と福島県人」上梓に際して、

 著者若うして米国に渡航し、在留すること正に二九有余年。而かも終に一事の成就せしものなく、内心省みて大だ慚愧に堪えざるものがある。然るに移民地に於ける吾人の生活は、全く不知不識の間に芽を吹き根を生じ、ついとはなしに第二世なるものの社会が、新たに形つくられつつある。実に是れ否定せんとして否定し得ざる厳粛な存在なのである。此の現状に直面して、我等は只茫手を拱いて傍観してゐる訳には行かなくなった。宜しいか。乃至其間日本人としての我等が、いかに地と汗と涙の洗礼に浴して来たかを物語り、以て第二世をよりよき発展に導かんこと。並にまた吾等が郷里福島県の人達に、吾等が海外に於て如何なる生活を体験して来たかを物語り、同郷人をして移民地生活なるものに、正しき理解と同情心とを寄せらるる事が、吾等がせめてもの願ひなのである。是れ著者が
浅学非才を顧みず、ここに本書を上梓した所以である。こいねがわくば在米の第一世たると第二世たると、将た母国の人士たるとを問はず、切に著者の微意のある所を諒とせられ、一読の労を吝まざらんことを。
 千九百二十九年六月 著者 佐藤一水 敬白
 また相馬郡の部では、自己の項に「自叙伝に代へて」によると、こうある。
 本書の著者 佐藤安治
 本籍 相馬郡太田村益田字かやの木下百十一番地士族
 出生明治十二年十月十日
 住所 141 N.Chicago St. Los Ange1es,Ca1if.
家族 妻キミ、長男治之、二男米雄、三男泰之(在日本)長女雪妓(大正十年七月渡米)
 著者は今ここに南加福島県人物史伝の筆を擱かんとするに当り、著者それ自身も亦福島県人なることを強く意識する者である。併しながら私はいかに厚顔無恥なりと難も、自分自身を紹介すべく自己の筆を以てすることは到底為し得ない。またさうした必要も認めないのである。で私は此際自己紹介を黙殺すべく決定してゐたのだった。然るに先輩にして年来の詞友たる松本本光氏は咋冬「加州人物大観」なる一書を著述したが、其の浩瀚なる書中に図らずも私自身に関する一編を発見し得たのである。賛辞過褒等の敢て当らざるものあることを知ってゐたが、ここにその全文を借用して自叙伝に代へることとした。蓋し松本氏もまた我意の存するところを諒としてくれるであらう。
 文壇の貢献者 佐藤一水
     「加州人物大観」著者松本本光
 新進俳句の権威アゴスト社の同人一水佐藤安治は、福島県の出身にして、世々相馬藩に仕へた郷士の家柄である。明治四十年八月沙港に上陸し、ソーミルに就働すること二年半にして大北日報に入社し(大正二年一月宇梶母国訪問団に同社の特派記者として一時帰朝、同年八月再渡米)在社五年にして大正四年四月南下して羅府朝日新聞社に入り、一九二一年五月同社の没落まで勤続し、翌年一月帝国印刷所に入り山内峡花の後を襲ひ、「在米婦人之友」編集主任となり、穏健にして艶麗なる筆を振ふて読者の好評を博する事正に四年間、其傍らアパートメント経営に従事すること五ケ年に及ぶ。彼は多年の宿望たりし「加州と福島県人」編集の要務を帯び目下帰朝中。
 彼は夫人との間に三男一女を挙げ、長女雪枝は既に松本一満(広島)に嫁して一助の母親となり、嗣子治之は郷里にあり娶りて一男を挙げている。彼は漸く而立の年を過したかの如き若々しき容貌の持主に拘らず、二人の孫を有するお祖父さんであるのも面白いコントラストである。彼は南加文壇の貢献者で、夙に創作を以て認められ、思想、性格、共に穏健にして真撃なる堅実家であり、勤勉にして品性高潔、有らゆる点に於て節度無く、且つダラシ無きは文筆に身を処する者の通弊であるに拘らず、彼佐藤一水は此の共通的弊害に陥らず感染せず、超然として己れを持する事篤きは、恰も泥中に在って泥に染まず、清楚たる姿を持し而も馥郁たる芳香を有する白蓮の夫れに似たる観がある。彼は友情に富み義理に堅く、責任観念厚き好個の紳士であり、文壇に於ける異数の人物であるは今更ら呶々する要がない。ここを以て友人郷党間に信頼され、一般社会より重視せらるるも亦怪しむに足らない。察するに彼が将に発刊せんとする「加州と福島県人」なるものも亦、彼が人物の片影として観るべきものがあらう。

 北米シアトル市大北日報社竹内社長の序文。
 友人佐藤一水君、「加州と福島県人」の稿本を携へて余に序文を嘱す、開いて之を見るに、名は福島県人と云ふも、大半は即ち南加に於ける邦人移住の移民史である。
 惟ふに邦人の米国に移住するや、既に五十年の歳月を閲し、其の間、人種的僻見と、経済的衝突と、或は日本人に対する恐怖心と、其他種々なる理由の下に手を替へ品を替へて、邦人の米人に迫害せられ、排斥せらるる事も亦甚だ久しいものである、上巻に於ては、それ等の事が詳細に記録されて居る。

 在東京の、翁久充の序文。
 佐藤君の「加州と福島県人」は、大局から見れば小さな記録であるが、しかし、今日まで余りに大ざっぱなものばかり編纂されてゐた中に、その郷土を中心とした人々の事績を一纏めにしておくと言ふことは、他日移民史を研究する上に渺ならなぬ便宜を与へるものであると思ふ。斯う言う著述は各県人の間にあっていいと思ふ。そして私はそれらのみんなを更に纏めた完全なものが作られてよいと思ふ。

 佐藤一水は、本書を執筆するために帰朝したという。巻末に「福島県海外移住側面史」という小論を掲げており、福島県庁で古い資料を調査し、福島県が海外渡航について記録しているのは明治二十八年以降である、としている。
 「因に明冶三十一年は福島県警察部の別途の調査によれば、本県移民の最初の年とされてあるが、同年の渡航先は皆な布哇にして、全県下より総計百〇四人を送り出してゐる」と双葉郡から三四、相馬郡からは三一名が移民。
 「更に保安課に就いて、昭和三年一月から九月までの間に全県下から海外へ発展した移民の状況を調査して見ると、南米もブラジルが最も多く、米領比律賓が之に次ぐの形勢である。そして移民の方法は、大抵移民会社から旅費を借り出し、移民地にそれぞれ労働に従事する契約の下に渡航する状態である。しかし如上二国以外の渡航者は殆んど自費を以て渡航してゐるので契約関係はない模様である」
 移民先  男   女  計     ブラジル 一一六  八一 一九七
布哇     四   二   六
加奈陀   一三   五  一八
北米合衆国  六   四  一○
アルゼンチン 八   二  一○

双葉郡から男二七、女二○、計四十七、相馬郡からは男二七、女二一、計四十八。

鈴木武司 中村町 桑港上陸 神学校
杉本鬼子治 金房村 ホノルルより
鈴木幸雄 八澤村 メキシコ鉱山より
金沢栄次郎 中村町 ホノルルより
杉内常治 福浦村 サンフランシスコから
佐藤重信 真野村 ロングビーチ興業学校
斎藤助治 上真野村 マニラから
木幡 強 石神村 ハワイから
中津川治 福田村 シアトルから
 などの相馬出身者の経歴も収録。

 昭和3年の福島毎日新聞に「帰国に就いて 一移民の手記」という詳細な体験談を寄稿している。
6.10.母国に帰りて(一)一移民の手記 

6.20.母国に帰りて(十)一移民の手記 

 母国に帰りて– 一移民の手記
             佐藤一水
 雨が降っても、地震が振っても日本はいいところです。
 殊に目路のとどく限り山は蒼く、田が青く其処に点々碁布している農家の庇の静けさは、何といふ自然といふものの法則にかなっている事でせう。

 私は再びさうした自然のふところに抱かるべき帰って来たのです。海のかなたの東の果てに横たはっている渇き切った大陸、そこから人工と文化のいとなみを取り除いてしまったら、只残るところのものは赤岩の起伏と:砂漠の連続との外に何物もないであらうところのアメリカの国おば見捨ててきたのです。
 そして私は矢張り故郷に帰って来ました。北米二十年の間、夢寝忘れることの出来なかった故郷に帰って来たのです。
 隠したってしかたのないこと私は今年五十になりました。細川頼之ではないが、
 人生五十愧無切
 花木春温夏己中
 の感で私の胸は今一杯です。
 そのかみ、郷党の誰もがあまり起しても見なかったであらうところの大それた望みを抱いて青春の血に燃え盛る二十九といふ歳を頑健な胸と脛、それを唯一の資本として、黄金花咲くてふ降るアメリカへ、妻も子も泣いて引き止めてくれる老たる親をも振りすてて孤影寂然、全く字義通り私は寂しく国を離れたのでした。
 明治四十年七月十九日。この日こそ、私の一生に或一新紀元を翻した、永遠に記念すべき日とはなったのです。
 まだ春秋に富まれていた私は、ひた働きました。母国に居ては予想、否空想もしてみなかった程の辛い苦しい勤めも果たしました。そして報われたものは果たして何であった 人種的偏見より来る屈辱と生国を遠く離れた者のみが味はひ得る非土の悲哀 只それだけに過ぎませんでした。併し
さうした此の屈辱と悲哀より外何物のとりえもなかった異国の生活ではあったが、私どもは絶えずよりよき改造の生活に向かっての進出を怠りませんでした。
遂に私共の努力が報われるときが来ました。それは即ち物質の充実でもありません。我欲の肯定でも勿論ありません。物質から我欲から超越した私の現在の生活様式です。堪らなく私には嬉しいのです。
在京二十余年の苦闘の生活は漸く私に此の自己満足を与へて呉れました。
 今後の私は之を以て私の宗教とも信仰ともして、信仰づけて行くことでせう。
(昭和3.6.10.福島毎日新聞)

 さてその後アメリカに戻り、昭和4年から翌年にかけては、安治は50歳を過ぎて娘に自動車を運転させてカリフォルニア州を縦断して点在する相馬双葉地方出身の福島県人をほとんど訪問してその近況を報告しているのです。これは昭和5年8月の「相馬郷」という相馬中学の同窓会雑誌に掲載されている。
 アメリカの移民社会は彼の青春を傾けた舞台である。彼の脳裏にあった考えは、その現場をすべて自分の目で見ておきたい、という願望であったらしい。
 「米国支部たより」には、

 昨年八月二日サイべリア丸で横浜を出帆再渡来した私であったが云々

 と記して有る。
 12月号の「相馬郷」を会員を直接訪問して配布したのである。
 昭和4年中にロサンゼルス内の県人を訪問し、年があけてからインペリアル・バレー(帝国平原)から、アリゾナ州へと訪問している。
 帝国平原の郡都、首府エルセントロには広島県人松下氏に嫁いだ娘の雪枝が住んでいたので、ここに寄り、浪江町(請戸)出身の熊川稔(農園管理人)らを訪問。
 ほかに愛澤宏 農園管理人
 佐藤重信 同 
 荒眞夫  同
 横川常治 
 鈴木武司 農園経営
 杉本常治 同
 田代捨雄 同
 木村正  商店員
 横川喜太郎

 エルセントロから東へ六十八哩、そこはユマ市である。シアトルから南下した大浦定衛氏(双葉郡加倉)がいる。レストランを経営していると聞えて訪ねやうと思ったが、前途尚二百哩近くあるため時間を節約して訪問を割愛。
 私のホード(フォード)はエルセントロに乗り捨てて、女婿のポンテアークを借用に及んだのは云ふまでもない。是がホードで、此道で此のスピードなら、もうバラバラに消し飛んで行くであらうことを想像しながら、飛ばした、飛ばした。
 自動車の故障でも起こすものなら、死に目の苦労を見ねばならぬ不安なところです。それを覚悟で出かけた旅ではあったが—-。

 ドミングスヒルには志賀浦幸次郎、松永末吉、熊田キクヨ
 サイドビローには両木幡氏がいる。
 木幡強、原町市(旧石神村)

 フェニックス市
 中津氏一家、松本好氏、谷田直昌氏、
タルソンには山田要之助父子

 アリゾナ州には江本春治、生田松之助、両氏とも渡米二十五年まだ一度も母国訪問を為さず、次第に老境に近づきましたので近く帰国する準備を急いでいるとのことでした。
 テンペ、メサなどいふタウンの郊外に例のサボテンの林を見て其の奇景にも驚き、グレンデールの整備された農園を見て、帝国平原の農園と並び称される其の所以も分かりました。毎日天気晴朗、八十度から九十度の高温には羅府から行った私は全く面くらひました

 明くれば二月八日、いよいよ加洲に帰るべく両び長い旅路に就きました。
 パームスプリングを経由して
 これを以て往復十六日、哩数一千四百哩の旅に終わりを告げたのです。以前の羅府近郊の旅を合せて二千哩郷友訪問の旅の記録は依って件の如しと申納めておく。(をはり)

 昭和5年に、福島県海外協会の南カリフォルニア支部が結成され、当時の福島毎日新聞に記事が載っている。
 この会で、佐藤一水(本名安治)は副会長に推されている。

「海外協会の南加支部
をロスアンゼルス市に」
 本県海外協会ではカリフォルニア洲ロスアンゼルス市に同協会南加支部を設置することとなり六日発令したが会員は五十六名で支部役員は左の如し
 △支部長 植村勝次氏(大沼郡本郷町出身)
 △副支部長 佐藤安治氏、沢田竹吉氏
(以下略)」

 昭和9年にはロサンゼルスからのレポートをものしている。カリフォルニア縦断による県人歴訪の後の、消息を追って、日本へ報告することに自分の役割を意識したのだろうか。

筆者佐藤一水氏は相馬郡太田村の出身、目下ロスアンゼルス市にあって印刷業を営んでいる、今後県人の消息を主として同地の通信をもたらして呉れることになった。
 
との紹介文がある。
(福島民報 昭和9年3月25日)

 ロスアンゼルス通信
県人が描く移民地風景 佐藤一水

私は一個の移民である—-然し文字通りそれは押しても押されぬ移民としての一個の存在である。
今は米国は西部太平洋沿岸の米国三大都市の一なるロスアンゼルスの一隅に蟄居してゐる一個の出稼ぎ移民であるが、移民生活にもかう二十年以上もやってくると、イヤが応でも板に付いてくるものだ。
此頃ではややもすると、自身移民であることを忘れて、他人の移民生活を極力批判して見たくさへなる事がある。
然し「移民だ」「移民だ」と思っている内に、そこに腰を据え、根を下して不知不遜の裡に移住民となり、しかも亦そこに生まれた児達は完全なる市民とさへなりきってゐる事実に直面して、私は過去二十余年間の在外生活を回顧し、転た感憾無量なるものがある。
以下、ロスアンゼルスにおける日系社会や県人の消息を報告しているが県人二世の娘ふたりが教育のため日本に渡航してゆくのをしるす。

此等二人のお嬢さんたちは米国生まれであるが日本の中等教育を受ける為めに帰国されるのだとは末頼母しい事である
3月25日民報

28日  第二信
このあと28日には第二信、ロングビーチの震災の後報や日系人、県人の消息が短く掲載されているが、その後は連載にならなかったようである。

 「原町短波」の誕生

 昭和10年から「原町短信」「南相だより」という雑報が盛んに掲載されるようになる。
 小高短信とか大甕短信とか、そのうち原町短波というコラムのような雑報のような形式が誕生して、以後はこの名前で記事掲載が続く。
 
 在米二世同胞の訪問
 田村文子女史の訪日についての記事
 
 昭和10年の福島民報に、原町の話題として次のような記事が載っている。
 
 在米日本人の第二世学生達五十人が母国見学団を組織して渡日廿八日横浜に上陸したとあるが、その見学団の幹事奥野正二郎氏(鳥取県人)の夫人は原町出身の(阿部源蔵氏令姪旧姓田村)文子さんなのであるが、ここ一週間内に生みの母田村ワキ刀自を方もインされるとのことで刀自を初め一族の喜びは只事でない
 文子さんは米国は加州ロスアンゼルスの郊外ガーデナ日本人学園の先生をしていられる二十徹夫君も団員として来ている、十四五年振りに相見る刀自と夫人のシーンは蓋し涙なしには見過ごせない悲喜劇であらう?(「原町短波」昭和10年7月1日民報)

 原町本町阿部市助氏の令姪田村文子さんは大正十一年渡米鳥取県人奥野正二郎氏と婚姻、今は徹夫(十才)さんという一粒種の可愛い坊ちゃんを儲けているが、六月下旬十四年ぶりで親子三人祖国見学団員として帰朝し、生みのお母さんをその実家に訪れたのは遂ここ一週間ばかり前の話
 奥野夫妻は加州ロスアンゼルス市近郊ガーデナといふ所の日本語学園の教師として米国生まれの第二世達へ日本語を以って教育する重要なる任務に就いている、氏等夫妻の十四年ぶりに帰朝その祖国日本の見学より受くる影響は蓋し氏の今後の教育施設の上に少なからぬ覚醒を与えることであらう
 学園の夏休みを利用しての帰朝の旅だったので奥野氏夫妻は席温まる暇もなき旅をつづけお母さんの膝下にも僅かに四、五日の滞在で、けふ(十六日)横浜埠頭を離れる米国ダラー汽船大統領クーリッジ号で祖国見学団四十名と共に帰米の途に就いた筈、切に健闘を祈るものである(「原町短波」昭和10年8月18日)

 原町短波と佐藤一水

 上記の記事を書いたのは佐藤一水という人物だ。昭和10年からの福島民報にはしばしば見かける原町短信、あるいは途中で原町短波とタイトルの変わった原町地区からの報告が、ごく原町教会に近い人物のようである。
 記事の中に、原町基督教会での子供活動写真会の紹介、田村文子女史の訪日の記事が出てくる。原町の行政(役所)、警察、キリスト教会の至近距離にいて、県紙の民報にほとんど2日おき、まれには毎日、「原町短波」の記事が載ることさえある。ほとんどは客観記事の紙面の中で、コラム的な書きぶりで個人的事情にさえ言及し、筆者の自己顕示欲の強さを表している一方でその掲載量と報道量、執筆量は職業的なうえに積極的に熱心である。
 昭和10年10月20日、22日の民報に佐藤一水の名前が途上する。
 その後、ひき続いて調査した結果、昭和14年まで「原町短波」は続いている。そのうち佐藤原町支局長という表現が出てくる。また昭和13年の分を調査継続していますが、福島民報2月8日号宮城版の「南相だより」に、佐藤ひげ郎に関する近況がのっている。
 また12年中の原町短波の文章にも、ひげ郎さんを第三者として称揚する記事が見えている。こうなると原町短波の筆者は、佐藤ひげ郎とは全くの別人であることになる。原町短波の掲載されている号を拾っていったところ、4月19日と5月27日号の原町短波には、「一水」の雅号が署名されているのを発見した。
 一水というのは、かつて、昭和10年には相馬支局長として名前が掲げられていた佐藤一水という記者だが、これが12年中の記事に言及がある佐藤原町局長ということなのであれば、その間に中村から原町に転勤したのか、最初から相馬支局長=原町支局長という意味だったのか、ともかくも原町短波の筆者がひげ郎であるという説は否定しなければなりません。

 昭和10年から民報の原町支局長を担当。18年ころから中村に移ったらしい。
 好きな俳句の道を活かしたのか、中村支局の主催による句会のことなどの記事がある。
 また戦後には、新制の原町高校にて海外の日系人社会についての講演を行っている。これは原町高校の創立50周年記念誌に記録されていたのを見つけた。
 こうしたことを考えると、さきに送った田村文子女史夫妻の記事は、この佐藤一水の文章である蓋然性が高そうです。
 アメリカ移民の同胞の日本訪問記事中の「(田村)文子さんは米国は加州ロスアンゼルスの郊外ガーデナ日本人学園の先生をしていられる」というのは、同じカリフォルニアの住人としての共感を込めての記述と解するべきものであると判断されます。ガーデナというのは、日本人とくに福島県人たちの移住先なのです。1991年には、私自身が取材で浪江町出身の二人の移民に面会してきました。そのうちの一人は、まさにガーデナの住人でした。

 さまざまな歴史の断片から、すこしずつ、つないでゆくと、忘れ去られた人物が浮かび上がってくるのです。
 昭和18年頃から終戦にかけて、福島民報中村支局に佐藤一水という記者が存在していたのは、知っていましたが、私が探していたアメリカ移住者の一水とは別人だと思っていた。ところが、実はその本人らしいことが分かってきた。
 移民史の取材を兼ねて一時帰国したあと、佐藤一水はアメリカに戻り、さらに日本に戻って、日本と中国との戦争、アメリカとの戦争の期間を、郷里で民報の記者をして生計を立てて、戦後までいた訳です。
 いずれにしても、佐藤政蔵さんもまた彼らの至近距離にいたし、キリスト教、文化、政治、新聞、文筆という世界では同じ仲間だったでしょう。政蔵さん自身でさえ子孫の間でしか知られないのに、原町を去った一水や後述の渡部毒楼、その他のユニークな人物については知る人は皆無です。墓の中から彼らを揺り動かして、かっての原町の面白い時代の話に耳傾けるという習慣から、とうぶん私は離れられません。(片野桃子への手紙より)
昭和10年6月23日
原!!町!!短波!!
石神村長大和田長治郎氏の本年の気象観測によると「どうも今年の天候も昨年と同じ様な気がしてならない。宅のつつじは昨年は華やかにパッとは咲かずいつ見頃だともなくて過ぎてしまった、そして田植期に照って水不足、梅雨期過ぎから雨つづき——どうも今年もそんな気がしてならにい」となんだか気味悪いつじ卜ならぬつつじ占ひをしているがお互ひ様どうもこれは気が揉めるです

原町短波10年5月16日
隣村大田村上太田日東養蚕組合では十六日を以て春蚕掃立ての予定石神村北長野、北新田地方は十五日掃立開始
 ×
石神村大字深野地内入道迫入口の西方に当る木下某の細君は非常な敬神家であるが、二ヶ月前から八幡神社が乗り移り万病を治癒することに百発百中昨今は十里を遠しとせず参詣するといふので生神様の名称が奉られ患者達おすなおすなの盛況だとか「物は試しだ」なんていつたら罰が当りますぞ

原町短波
  ×
次に前記農蚕校を卒業後栃木県宇都宮市の県立種畜場を本年三月卒業、これも実務に従事中の原的大字桜井無電塔下の新妻四郎君(二一)は母校先輩の斡旋で穀物検査員たることを希望中のところ去る七日その筋より就職を認可され双葉郡長塚穀検所に助手として働くこととなり十日朝現地へ向け出発赴任した
  ×
短波子の三男坊―気侭者で有名な泰之も十二月一日千尋の銀道隊より除隊となり帰郷したので—–やれ嬉しやとホッとしたのも束の間の夢、今度はいよいよ国防第一線に立つのだといつて満鉄員を志願のところ首尾よくパス。九日夜出発西行の途に上ったが、モウ十三日には大連に着いた頃、赤い夕日の満州も今や白コウコウの氷原に驚異の瞳を見張っている姿が目にチラツクです其昔はやつた「サゾヤ満州は辛いだろ」といふ唄がそぞろ思ひ出される
11.7.中村製糸場工女同盟罷業きのう一日で解決

昭和11年

 昭和11年には原町飛行場が開場している。以後の福島民報の原町飛行場の関係記事はすべて佐藤一水の手元から発しているわけだ。

昭和11年6月10日
福島民報 大鳥居奉納 原町在郷軍人会分会では工費五百円で夜森公園に廿八尺の大鳥居奉納
写真は奉納大鳥居

 無線塔に関する記事

 原町短波 昭和11年11月14日
長波長時代の寵児として華やかなりし通信事務に・掌した原町無電塔も今や時代の波に抗し難く空しく過去の遺物としてその存在を厄介視せられているが、その五本の副柱の内二本は既報の如く日本放送協会に身売され本月初旬からその解体作業が開始されている、高さ六百フィィートの中空に作業する命知らずの人たちの活動を見るも亦鮭川の漁労と合わせて晩秋の半日を割愛する価値は充分にあらうと思ふ 

11.
大工庄之助相馬藩を救う
11.
会津の落ち武者が穴居生活二十年
九十三歳原町の榊爺さん
11.6.7.
福島民報の経営陣
明治32年1月1日大畑写真館で撮影
右端松本孫衛門 写真

志賀儀三郎の写真あり

原町短波11.7月 佐藤政蔵に感謝、野馬追放送史上の快挙

11.1.6.
原町短波 町長主催年賀名刺交換会 

原町短波11.2.10.
 南新田字新町四十三番地佐藤昌作(二九)君は一昨年六月、九年ぶりで南米から帰朝、米穀商を営んでゐたが、再びもとの古巣が恋しくなり再渡航発念、いよいよ念願叶って二月九日出発した。一家四人が十八日の神戸出帆リオデジャネイロ丸で今度は一生アチラに生を託する決心で「ハイサヨナラ」すると

11.
原町短波 佐藤政蔵に感謝、野馬追放送史上の快挙

7月14日 原町短波
野馬追の実況放送こそは原町人に取っては何を措いても野呂局長と佐藤政蔵君に感謝すべきである、あれまで漕ぎつけるには相当人の知らない骨を折ってござる、当日の右両人のニコ顔は永久に忘れてはならない野馬追放送の歴史の一頁を飾ることになった二人の為めに短波子も一丁祝盃を傾けたことである

7月17日 原町短波
相馬農蚕学校では今週を勤労奉仕(フシヤルサービス)を為すことにした、で十四日月から三日間夜の森公園に進出、まづグラウンドの草刈り記念碑、鋼像其の他建物の洗浄、立木のまで奉仕する筈で、四日目からは原町々内に進出、路上の汚物排除街頭美化を目指して「住み心地よき町」の建設に奉仕するといふ同校職員生生徒の赤誠に感謝するものである
昭和11年8月3日 原町短波(二日)
雲雀ケ原飛行場の周囲もいよいよ本格的に実現可能性を加へ陸軍省では極めて最近に臨時練習場として向ふ二ケ年間使用することを申出でられたので、地元原町は開いた口にボタ餅! 二十九日関係委員連が第二師団へ駆付け経理部へ打ち合わせを行ふなど最近の原町々政上には大なるセンセーションが巻起ってゐる
×
県立相馬農蚕学校々友会では同校の実費設備資金の造成を兼農家慰安の目的で八月一日より一週間映画会を左の各地を巡回することになった一日大みか、二日石神、三日上真野、四日新山(双葉)五日原町 六日八沢 七日原釜 因に画は「親を呼ぶ鳥」「権八二重想」「豪傑花嫁」など新興キネマの特作品である

昭和11年8月11日 原町防空思想宣伝
県立相馬農蚕学校主催防空思想普及映画会は九日午後八時より原町旭公園内納涼会場に於いて開催された夕涼みがてら参会せしもの無慮三千を数ふの盛況で原町郷軍分会及び防護団員等がすべてを斡旋し口野軍政分会長開会の趣旨を述べ福島連隊司令部付中村少佐の防空思思鼓吹の演説ありていよいよ当夜の主題たる「防空日本」七巻を映写した、当夜は野外の事とてトーキーの施設なかりしも一軍人により解説され遺憾なきを期したので大成功を収めた閉会せしは十一時土用明けの夜更けはいとど涼しさを加へてゐた

昭和11年8月24日 原町短波
話は少し古いが廿日夜七時から東一番旭座で郷軍分金、国防婦人会等の後援で「日本精神作興の夕」の催しがあった、講演、史談、剣舞、琵琶歌と士気振作に関するお歴々の奨励は効果百パーセント盆中渡辺栄盛氏の琵琶歌「野馬追」「熊川少尉」は実に当夜の圧巻であり…

昭和11年10月8日 原町短波
運動季節さらに演芸季節とあり原町青年第一分団即ち新町青年会主催の演芸会は八日午後六時より朝日座に開催される、非常時局の認識を深からしめるといふ意味で「軍事美談」「燈火管制ナイト」並に時代物「箱屋団吉」等を上演するとか非常時に処する青年のお手並拝見もマンザラではあるまひ
  ×
次に、東北大学音楽楽団四十名を聘し原町音楽同好会主催の大演奏の夕がもたれることになった、十日午後七時より朝日座において地方稀に見る否聴く豪華陣が展開されることであらう血みどろの生活戦線に喘ぐ我等にとっては聴きのがしてはならぬ一夕である
  
昭和12年の原町短波等

1.16.原町短波 原町役場問題
2.11.原町短波
2.14.
2.15.
2.16.原町短波
2.19.原町短波
2.23.原町短波
3.2.原町短波
3.8.
3.29原町短波
4.1.原町短波 ひばり吟社
4.18.原町短波
5.14.原町短波
5.28.原町短波
6.24.原町短波
6.14.原町短波
7.26.原町短波
8.2.原町短波
8.4.原町短波
8.8.原町短波
8.21.小高郷だより
8.22.原町短波
9.28.原町短波
10.7.原町短波
10.9.原町短波
10.16.原町短波
11.5.小高だより
12.6.原町短波
12.13.
12.18.原町短波
12.28.原町短波

原町短波 昭和12年1月14日 在郷軍人会松永篤次郎のトラブル
原町短波 1月16日 原町役場問題
原町短波 2月11日 原町方面の飲料水に異変あり
原町短波
●「無電塔取り払ひの恩恵 桜井部落に電灯がつく」昭和12年3月8日

 星光氏の葬儀 昭和12年5月24日民報
故相馬郡原町相双毎日新聞社長星光氏の葬儀は二十三日午後一時同町南東原の自宅を出棺大橋本の共同墓地に埋葬されたが会葬者三百人を超え各方面よりの弔旗、贈花等華やかな盛葬であった 
 
原町短波 5月29日
 今月は新聞人に不吉な月だった、此の狭い原町で二人までも新間関係者が相次いであの世に旅立ったことに大なるショツクを感じたことである、志賀儀三郎さんが十六日星光君が二十一日原町に於けるこの二人の存在はあまりによく知られ過ぎてゐるが二人とも今年や来年にヨモヤ死なうとは常人初め何人も予想しなかったに違ひない、そこに人間の弱さがあり愚味があるのである

原町短波 昭和12年8月8日
暑中休暇の原町小学校では八月一日からラヂオ体操会が催され毎朝一千人の参加者が午前六時の校庭にて老若男女の溌剌たる豪華版が繰広げられてゐる、土用の運動は「ムシの種が切れる」といふ、いかさま初日の出席者は一千百九十三名といふドエライ・レコードだったのに五日目には一千名以下に低下した、此比率は毎日五%の人間が「ムシの種」が切れた予定の退去者だとなると会期の三週間後には? ヤレヤレ龍頭蛇尾は心細いですゾ。
  ×
そこで短波子もこの非常時局とラヂオ・タイに刺激され午前五時半から二時間石神村山南方面ヘニュース・デリパリーに出掛けるんだが、それが恰度地方の朝例口朝茶も飲まずに出かけた短波子の腹の虫がぐうぐう鳴りなさるのだが、これは「ムシの種」ではないから切れもしまいし斯うして走るのがメシの「タネ」だとすると可なり辛いです(六日)

原町短波8月22日
旧暦お盆もけふで「さよなら」するといふのにこの暑熱はどうしたことか? 北米加州あたりでば此季節をインデアン・サンマーと称へ、ご婦人連は「お顔がインデアン土人の如く赤銅色に焦げる」といふので痛く恐れられてゐるのだが、今年は時恰も日支事変の劈頭といふので日本婦人は銃後の護りと厳かにインデアン・サンマーを蹴飛ばす元気に男衆も武者張り立てゐる頼もしき哉日本魂である
  ×
石神村山南を貫流してゐる水無川が昨今の旱魃に名実共に水無川となってしまった其流域
地方は已に飲料水も涸渇して朝夕の水の運搬に悩まされてゐる向もある、(後略)

南相たより 12月13日民報
南京陥落を祝し、小高町では十一日午前十時より太田村に於いても十一日午後二時半より
原町では十一日午後六時より祝勝提灯行列を挙行町内を練り廻り三島神社祠前にて万歳三唱して午後七時半解散したが参加人員無慮二千人の長蛇の陣を展開して銃後の気勢を煽った、引続き十二日は午前十時より原町小学校及び実科高女校の全生徒二千七百を主とし各種団体員五百名の参加を得て旗行列で町内行進三島神社に参拝祈願して解散した

5月23日 原町短波
原町座に掲示してゐたブロマイド五枚(価格五円)を窃取、検束

6月22日 原町短波
天上知らずに騰る米価にプロレタリア階級はまったく怖じ毛を振るってゐるのを冷眼視して原町米穀商組合では又しても穀類の値上げを発表した(一升建)
×
原町を中心として近郷の簡易保険の加入率は他町村に比してあまりにふるはないといふので野呂原町局長頭をしぽった結果、原町字新町の紙芝居屋森山栄君に委囑して紙芝居で簡易保険の効果を宣伝しむることになった…がいい思ひ付きに町民達は局長さんのアタマのよさに敬服したことである

1.16.原町短波 原町役場問題

3.29原町短波
4.1.原町短波 ひばり吟社

昭和12年5月17日
志賀本社理事急逝

明治39年入社以来、大正8年6月まで13年つとめ、平支局長に。
大正9年原町支局長就任し、政友会支部幹事長。
兄は松本孫の代理で民報社長をした志賀千代蔵。その間、社員が退社したとき一緒に退社した。
 その後福島新聞が見込んで入社させたところ千代蔵は怒って勘当にしたエピソードがある。
 昭和9年9月原町助役に選ばれる。昭和10年6月民報に復帰し、民報理事。通算30年の新聞人の生涯だった。自宅は渡利。葬儀は故郷原町で行われた。

昭和13年

昭和13年
1.7.
1.31.原町短波
2.7.原町に飛行学校
2.8.
2.8.
2.19.原町短波

3.1.原町短波
3.6.
3.9.原町短波
3.11.
3.18.
3.23.原町短波
4.3.
4.26.原町短波
5.3.原町短波
5.4.原町短波
5.25.
5.27.原町短波
5.28.原町短波
5.29.
5.30.原町短波
6.11.夕
6.12.
6.15.
6.19.原町短波
6.20.
6.27.
昭和13年 民報 原町短波
7.1.夕 野馬追大祭を前にして原町新町に「商盛会連盟」といふのが出現、雑貨、食糧、はき物、金物、裁縫等十二店が一団となり福引形本大売出しを始めた
 期間は二十九日より七月七日まで一等白米一俵(十本)二等銘仙一反(三十本)三等竹行李(六十本)四等バケツ(百本)以下七等まで三千本空籤なし
といふので金三円の買上げに対し福引の補助券一本で金五十銭毎に一本の補助券を贈る制度もあるといふ
7.2.原町短波
7.9.原町短波
8.1.原町短波
8.9.
8.18.
8.21.
8.21.原町短波 雑貨店商業組合
8.28.原町短波 在郷軍人簡単点呼
9.14.原町短波
9.17.
9.18.原町短波 原町地方の大雷鳴
9.21.
9.26.
10.2.
10.3.
10.16.原町短波 銃後後援強化週間
10.23.原町短波 二宮尊徳翁83年法要
12.7.南相たより 戦死者の消息
12.8.片野桃子の洋裁教室
12.18.原町短波 イマ、ニホンヲハナレタ

 昭和13年2月8日 南相たより 福島民報宮城版
大田村西方治翁の銅像除幕式に参列した原町の「ひげ郎」事佐藤政蔵氏は謹厳そのものの如き祝詞を固くなって述べていたが最後のドタン場でいよいよ本来の本音を吐いて朗吟、姓名詠み込のヘナブリ一首
西なれどひがし北から南まで
方治なれども圓く治めし

 原町短波 昭和13年12月8日
 銃後の家庭に在っては洋裁は婦人の常識であらねばならぬ-といふモットーで原町太助町文化通りの、片野歯科医院内に洋裁研究所が開設された、主任は片野桃子さん、助手は佐藤桃代さんで修業一ケ年、女学校制服、婦人子供服や廃物利用改造服をも教授するといふ、知れ!今や時代は軽快で経済的な洋装が一艘家庭の寵児であることを
  ×
しかし軽快で経済的な洋装が喜ばれる反面に安息所としての家庭には婦人内面の奥床しさと淑やかさそして外装の艶やかさが必要だ、此の要求に応じて原町仲町通布袋屋筋向ひ点茶、生花、和裁教室「姉妹塾」といふのが一日開設された、未生流生花、小原流盛花、裏千家茶の湯等を笹森静月女史が、和服裁縫を□沢千代女史が担任してゐる

2.7.原町に飛行学校

13.2.1.
中村神社元朝詣り異変
しょげる大鳥井ギャング門馬の寄進とわかり氏名刻印を削る

13.4.26.
原町短波
上海で倒れた次男米雄の遺骨をもって墳墓の地と決めた北海道旭川に向かうの記

8.21.原町短波 雑貨店商業組合
8.28.原町短波 在郷軍人簡単点呼
9.18.原町短波 原町地方の大雷鳴
10.16.原町短波 銃後後援強化週間
10.23.原町短波 二宮尊徳翁83年法要
12.7.南相たより 戦死者の消息
12.8.片野桃子の洋裁教室

12.18.原町短波 イマ、ニホンヲハナレタ
原町短波13.12.18
本県芸の慰問団

13.5.28.
南米から帰国
海の荒わし目指し
桜井武志

昭和14年

14.12.19.
四男「陸鷲」に合格
帰国の同朋感謝の献金
原町に感激の話題
孝、博、正一

原町短波14.5.14.
どこを向いても原町は今青葉の中に包まれている、目に染み入るやうな新緑は晩春初夏の息ぶきを大きく描いている

原町短波14.5.24. 原町無線塔無用の長物が東北帝大の無線研究所に

原町短波14.4.16. 原町の観桜シーズン

原町短波14.6.12. 高すぎる営林署の軌道使用料 一水署名入り

原町短波14.3.6. 海岸通りの水飢饉

原町短波14.1.25. 遠距離騎乗会

原町短波14.10.2.
雲雀ヶ原飛行場をやや長期にわたり使用したい支障なきや熊谷飛行学校
という電報が役場に舞い込んできた
これを機会に永久の飛行場出現!

昭和15年

原町短信15.4.22.
原町蚕業試験場開場式25日

15.6.18山家医院、遠藤医院の跡へ

15.6.12.
映画になる相馬の村々
厚生省から大羽氏来郡

既報厚生省では将来における国民の健全なる人的資源を培養する高遠なる理想の実現と現在優秀なる作業工程を以て銃後産業の生産確保に邁進しつつある実情を映画化してこれを全国に呼びかけるといふ極めて放胆的な而かも官僚ばなれのした親土気分百パーセントの「村の保育所」仮称と題する映画作製を目指して厚生省社会局児童課大羽昇一氏は東京理研科学株式会社映画班を引率した九日相馬郡小高町に乗り込み十日から県の指定による金房村小谷部落の共同作業の田植
、養蚕の実況及び農繁時に乳幼児の保育の実際、応召兵家族の留守宅状況、戦死者遺家族の実情、更にそれらを巡る銃後後援の勤労奉仕等々の農村シーンを映画におさめたが村よりは助役佐藤磐氏、校長豊田秀雄氏等参加し銃後戦士の一員としての一役を買って演技に参加した演出担当は山口晃監督、カメラマン石川○○、
古矢正吉、海老澤龍三の三氏で汗だくだくの熱技を撮ってイた、因に映画班一行は十一日金房村の撮影を了り十二日より双葉郡幾世橋村、更に十五日相馬郡大野村をを映画化の予定であるといふ
山口監督は
無技巧な農民たちを映画化することは、出来た画面が自然で真実に充ちて力強いものが出来ると思ひます。ロケーションもいろいろな条件に恵まれて面白いと思ひます。明日は遠い汽車の煙りを取り入れて此村の位置を示しておきたいと思ふ

旧盆の原町だより15.8.19

 原町短信 昭和15.6.9.
相馬郡原町幸町の原町日本キリスト教会(役場東隣)は明治三十三年六月の創立で九日を以て満四十周年に相当すると共に今回古山金作教師の新任を迎ふることとなったので同教会では当日午後二時から感謝記念礼拝伝道教会建設式並びに主任者就職を挙行するが司式者は仙台市荒町教会角田桂嶽師である。
産業報国連盟理事、現代議士杉山元治郎氏は国民精励強化講演会講師として十日来町の上十一日午後七時半から原町公会堂で「皇国神社とキリスト教」と題し、また十二日午前中を相馬農蚕学校で「時局と宗教」なる演題で学生講演会を開く筈である

原町短信 昭和15.
原町本町三丁目元高野眼科医院は昨秋院主病死のためしばらく閉業中のところ今回仙台市出身医学士宇津志俊介氏(駅前通志賀嘉吉氏女婿)が同所を引受け外科医院を開所した電話一七○番である
 ×××
帝国飛行協会本県支部主催のグライダー滑空実演会は原町雲雀ヶ原で二十六日午前十時より挙行され更に映写会は同日午後六時より相馬農蚕学校で映写されることになり学校当局はその準備に大童の活動をなしている
 
 太平洋戦争開戦前夜、記事にも戦時色が強くにじんでくる。

 昭和18年以降は、渡部毒楼という人物が原町支局長として戦後の22年ころまで記者をつとめていましたが、この人は鹿島町生まれで最初に野口英世の伝記を書いた人物です。
 これについては別に詳細な目録を製作した。また彼の生涯についてはすでに「野口英世を作った男」というタイトルで、発表している。

●八十年祭に因みて尊徳翁と相馬藩(一)荒廃相馬更生に布かれた「御仕法」相馬支局佐佐藤一水生(福島民報10年10月20日)

昭和11年の原町短波

 原町上渋佐字原畑二百五番地農高田勝義君(二五)は八月中タ方すずめ色時を内縁の恋女房佐藤リイ女と自転車に相合傘否相乗りで甚だエロチックな場面で石神村牛越地内を流したといふので自転車取締規則違反として金一円科料
  ×
モ一つ隣村大みか村大字雫字京塚六十四番地高田四郎(四八)君は八月十七日午後十一時頃無燈火の自転車で小高町岡田地内の国道を通行中小川巡査に誰何されたところ「俺ア大みか村役場の使丁だからカンベンしておくれ」と哀願したので「ヤクバの者だったらモット粛正せにゃイカン」とこれも容赦はならず科料金一円(原町短波9月4日)

双葉郡大野村大字下野上字原三十四番地果実商渡部要君(二四)は八月三十日のタ方五時ごろ処もあらうに原警察署前の人通り繁き中に禁断の木の実を食ぺたアダム・イヴ達の姿そのまま風穴だらけのスイミング・コート(海水着)を引っかけて通行人と立ち話してゐたところを内勤の佐藤巡査に誰何され風紀素乱の咎により即決科料金一円(原町短波9月7日)

原町カフェー果の二重鎮—-西で日の出、東で文化それぞれの特色で粋客層を両断してゐるが、文化の立体的発展の向ふを張って日の出の平面的発展は油断はならない。殊に初音町界隈のモダニズムの浪に乗ってそこに覇を唱へようとする日の出ブランチ日満荘の進出こそ見ものである。文化たるものよ、その明朗サービスに尚一段のホィップが必要であらうほ(七日)(原町短波9月8日)

本町三丁目の青年連によって組織されてゐ原町青年団第五分団では十月五日(土曜)六日(日曜)の二日間原町座において「映画の夕」を開催して活動写頁「柳生又十郎」及び「天下の副将軍」を映写するさうである木戸十銭。基本金造成の目的であるからなるぺく援助して戴きたい—-と団幹部の一人はいってゐた(原町短波9月28日)

時正に秋にしてマレーヂ・シーズン(結婚季節)が押し寄せてゐる(原町短波10月19日)

遠藤原町々長、箱崎警察署畏、野呂郵便局長の三名連署で「土曜会」なるものを発会方斡旋してゐる、会員はすぺて長のつく原町一等紳士でなければならないといふどう考へたって肩の凝る代物らしい
×
それがチョツトニ十幾つかあるんだが一体その「長」さん方が月に一回土曜日の午餐を小泉楼上で喰ぺてそれであと何をしようといふんだらうか。長、長、長——ヘッド、ヘッド、ヘッド! 各種各様のヘッド達が集り集って、お手前の自慢話をしてみたところでお互ひ様チンブンカンプンではごわせんかノー(原町短波)

●湧く前景気 原町秋市 十日から三日間(民報11月8日)中村—原町間には三個の路線があり各パスを運転して現在に至ってゐるが競争の結果景気難を耐へてゐたが今度中村側トキワ、トヨタ、原町側愛沢の各バス屋が連合の機運を作り合併の話を進めてゐたが十二日いよいよその具体案が作製されたので近く三社合同の上会社組織となし乗客の便を図ると共に事業の積極的展開を期することになったとは地方開発の為にも祝福すべき事である(原町短波)

 一体鶏のマル焼きなんて聞いただけでも不気味なもんではあるんだが何そ図らん海の東の向ふ岸ではそれが何よりの御馳走、十一月最終木濯日のサンクスキヴング・デー(感謝祭)かけては必ず七面鳥の丸焼きが提供され、春になると豚の丸焼きが提供される「鶏を割くに牛刀を須ゐんや」といったのは支那人の事、此処では牛を割くにもホークとナイフで事足りる。一寸栄養国固本人にはまづ想像以上の風景ではある。(原町短波11月23日)

原町地方は十日午前九時ごろよりチラホラと降り出し午後二時ころに至って漸く降り止んだが見渡す限り一面銀世界となり全く塵の浮世も浄化された気持ちこれが今年の初雪となり積ること三寸に及んだ(原町短波12月13日)

片倉製糸会社では製糸所創立三十周年記念産繭規格品評会褒状授与式並に優良特約養蚕組合表彰式を東一番町の旭座で二十四日午前十時より催した、平素は新聞記者を敬遠してゐる会社でもこんな秋(とき)には頼(頻?)りに秋波を寄せてくるのはどうしたことぞ思ふ(原町短波12月)

二日前放送した原町栄町と東一番町南西角の「無二焼」本舗大原武君方では十九日午前九時半ころ店先においた火鉢の中へ活動写真のビラが風で飛込み燃え上がったところを筋向ふの丁字屋時計店西内三郎君が見つけ飛出して消し止めたので大事に至らず助かった。武君すかさず「無二焼」本舗です無理やきは致しません、平にごかんべんねがひやす!(原町短波12月23日)

昭和13年記事

13.4.26.
原町短波
上海で倒れた次男米雄の遺骨をもって墳墓の地と決めた北海道旭川に向かうの記

10.24.仙台の旅行映画開催
桑折の桑折座、三春昭和座、坂下栄楽座で
今年挙行の相馬野馬追祭

13.2.1.
中村神社元朝詣り異変
しょげる大鳥井ギャング門馬の寄進とわかり氏名刻印を削る

昭和13年2月8日 南相たより
大田村西方治翁の銅像除幕式に参列した原町の「ひげ郎」事佐藤政蔵氏は謹厳そのものの如き祝詞を固くなって述べていたが最後のドタン場でいよいよ本来の本音を吐いて朗吟、姓名詠み込のヘナブリ一首
西なれどひがし北から南まで
方治なれども圓く治めし

13.12.18
原町短波
本県芸の慰問団

軍医少尉大井不二男が監督
白衣の記録 仙台陸軍病院映画班
13.12.24.

原町短波 昭和13年6月11月夕刊
原町の豆新間「相双毎日新聞」が但野広海君(新任中村民報支局長)によって発行されてゐたが去る五日尽日を終刊として八日遂に廃刊号を其筋に提出したといふ、昭和十一年七月一日前経営主星光君によりて創刊された十二年四月同氏の死後を承けて但野君が経営主任に当つてゐたものであつた、原町唯一の日刊紙を失つたことは原町の大なる損失でなければならぬ、原町の為に惜むものである

原町短波 昭和13年12月8日
銃後の家庭に在っては洋裁は婦人の常織であらねばならぬ—といふモットーで原町太之助町文化通りの、片野歯科医院内に洋裁研究所が開設された、主任は片野桃子さん、助手は佐藤桃代さんで修業一ケ年、女学校制服、婦人子供服や廃物利用改造服をも教授するといふ、知れ!今や時代は軽快で経済的な洋装が一般家庭の寵児であることを
  ×
しかし軽快で経済的な洋装が喜ばれる反面に安息所としての家庭には婦人内面の臭味しさと淑やかさそして外装の艶やかさが必要だ、此の要求に応じて原町仲町通布袋屋筋向ひに点茶、生花、和裁教室姉妹塾」といふのが一日開設された、未生流生花、小原流盛花、裏千家茶の湯等を笹森静月女史が、和服裁縫を口沢千代女史が担任してゐる

13.5.28.
南米から帰国
海の荒わし目指し
桜井武志

13.5.28.奮起の武志君 海軍を志願
ブラジルから帰って 東京朝日福島版

昭和14年記事

14.12.19.
四男「陸鷲」に合格
帰国の同朋感謝の献金
原町に感激の話題
孝、博、正一

昭和14年5.14. 原町短波
どこを向いても原町は今青葉の中に包まれてゐる、目に滲み入るやうな深緑はまことに晩春初夏の息ふきを大きく描いてゐる、殊に夜の森公園の葉蔭、本陣山一帯の松の林はすばらしい春雨の朝の眺めである
×
深緑りの本陣山の一角に今まさに紅蓮の焔を吐いてゐる「つつじ」が真っ盛りである、此の十四日の日曜を見のがしたら、あとは悔ゆとも及ぷまい、視るは法楽、見なくとも花は散ってゆく原町唯一の「つつじ」の名所本陣山をご覧うじあれ

14.5.12.
福島松竹と福島東宝 写真
14.5.24.
原町短波 原町無線塔無用の長物が東北帝大の無線研究所に
14.4.16.
原町短波 原町の観桜シーズン
14.6.12.
原町短波 高すぎる営林署の軌道使用料 一水署名入り
14.3.6.
原町短波 海岸とおりの水飢饉
1.25.
原町短波 遠距離騎乗会
10.2.
原町短波
雲雀ヶ原飛行場をやや長期にわたり使用したい支障なきや熊谷飛行学校
という電報が役場に舞い込んできた
これを機会に永久の飛行場出現!

昭和15年記事

原町短信 昭和15.6.9.
相馬郡原町幸町の原町日本キリスト教会(役場東隣)は明治三十三年六月の創立で九日を以て満四十周年に相当すると共に今回古山金作教師の新任を迎ふることとなったので同教会では当日午後二時から感謝記念礼拝伝道教会建設式並びに主任者就職を挙行するが司式
者は仙台市荒町教会角田桂嶽師である。
産業報国連盟理事、現代議士杉山元治郎氏は国民精励強化講演会講師として十日来町の上十一日午後七時半から原町公会堂で「皇国神社とキリスト教」と題し、また十二日午前中を相馬農蚕学校で「時局と宗教」なる演題で学生講演会を開く筈である

原町短信 昭和15.
原町本町三丁目元高野眼科医院は昨秋院主病死のためしばらく閉業中のところ今回仙台市出身医学士宇津志俊介氏(駅前通志賀嘉吉氏女婿)が同所を引受け外科医院を開所した電話一七○番である
 ×××
帝国飛行協会本県支部主催のグライダー滑空実演会は原町雲雀ヶ原で二十六日午前十時より挙行され更に映写会は同日午後六時より相馬農蚕学校で映写されることになり学校当局はその準備に大童の活動をなしている

15.4.22.
原町短信
原町蚕業試験場開場式25日

15.6.18山家医院、遠藤医院の跡へ

15.6.12.
映画になる相馬の村々
厚生省から大羽氏来郡

既報厚生省では将来における国民の健全なる人的資源を培養する高遠なる理想の実現と現在優秀なる作業工程を以て銃後産業の生産確保に邁進しつつある実情を映画化してこれを全国に呼びかけるといふ極めて放胆的な而かも官僚ばなれのした親土気分百パーセントの「村の保育所」仮称と題する映画作製を目指して厚生省社会局児童課大羽昇一氏は東京理研科学株式会社映画班を引率した九日相馬郡小高町に乗り込み十日から県の指定による金房村小谷部落の共同作業の田植、養蚕の実況及び農繁時に乳幼児の保育の実際、応召兵家族の留守宅状況、戦死者遺家族の実情、更にそれらを巡る銃後後援の勤労奉仕等々の農村シーンを映画におさめたが村よりは助役佐藤磐氏、校長豊田秀雄氏等参加し銃後戦士の一員としての一役を買って演技に参加した演出担当は山口晃監督、カメラマン石川○○、
古矢正吉、海老澤龍三の三氏で汗だくだくの熱技を撮ってゐた、因に映画班一行は十一日金房村の撮影を了り十二日より双葉郡幾世橋村、更に十五日相馬郡大野村を映画化の予定であるといふ
山口監督は
無技巧な農民たちを映画化することは、出来た画面が自然で真実に充ちて力強いものが出来ると思ひます。ロケーションもいろいろな条件に恵まれて面白いと思ひます。明日は遠い汽車の煙りを取り入れて此村の位置を示しておきたいと思ふ

旧盆の原町だより15.8.19

15.10.23.燃ゆる大空福島試写会知事も長男つれて
10.24.民報

昭和16年民報
白色救援車 原町にお目見え

緊急を要する病症者及び産婦らの救援に出動する白色救援車が県下のトップを切って原町にお目見得した、同車は原町自動車株式会社所属の一九三五年型シェボレーで二十三日全車体を銀色に塗り替へ何時でも医師、産婆は、看護婦さん達の医療救急の御用に応ずべく待機せしむることになつた、これが原町に於ける唯一のガソリン発動車として残ったワケである。 (昭和16年9月26日民報)

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