夏に向けて「ドキュメント相馬野馬追」を書き直している。1986年ころにチェルノブイリ原発事故の年に小高神社宮司の相馬胤道氏と議論していたころの中村移城の理由は、伊達との戦争に備えての軍費節約ではないかという説だった。あのころの戦争は、米沢と小高との戦争だから、「戦場が国境の新地あたりになる。それでは時間がかかる。中村の城を構えれば食糧も節約できる。けっきょく北への備えではなかったでしょうか」
 相馬胤道さんは、小高工業高校の就職指導の校務分掌を受け持った高校教諭で、ふだんから取材でお世話になっている。小高神社宮司との兼業である。自宅は福島市の蓬莱団地にある。私も福島市大森の自宅から小高まで行って、小高工業の職員室で、これらの取材も対話もやってくる。
 なつかしい議論はしかしあっけなく解決してしまった。慶長16年の中村移城は、10月28日の津波で、小高城下が水浸しになって住めなくなってしまったことが直接の原因だろう。
 すべてのことが、ひとつの藩の歴史が世界史的な関連で、別なものがたりに変貌しまったのだ。その意味で小説というのは便利である。3.11の直後に「相馬戦記」という小説が毎日新聞社から出版された。ふたつの津波被害から復興する相馬藩の記録なのだが、中身は郷土史家がこつこつと研究して出版した郷土史をそっくり書き写し、かんじんの売りは、400年前に起きた津波のファーストシーンで、読者をさらってしまうという出版マジックだった。ところが、地元の郷土史家のなんでもありのフィクションまで、ごたまぜに引用しているために、めちゃくちゃな小説になってしまう場合がある。
 たとえ、江戸期の昌胤の緋の鎧について戦国時代の義胤のものとしてしまっているところ。地元のものなら何でも自慢してフィクションを勝手な史実にしてしまう田舎人の悪弊と、東京にいて郷土史を食い散らかす仕事をする出版人の、あさましい所業とが癒着して新たな意図的な誤謬の出現になる。
 中央から出版されるから何でも買う、これを典拠に権威として引用する田舎の読書家も問題だが、売れればいい出版人も困ったものである。

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