予科練入隊二年目の手紙

 あの太平洋の荒波にもまれて育った相中健児の意気を見せてやりたい。略 この前の日曜日、東京行軍に行って来た。
 朝二時半に起床し、まず原宿に行き、東郷神社に参拝して海軍館を見学しました。
 入隊前に父と一緒に見た海軍館ですが、軍隊生活を過しつつある眼で見る時、それは全く違った印象であり、いくら見ても飽きるということがない。次に明治神宮を参拝し靖国の社頭に立ち、将来何時か俺もまた、この靖国の神として祀られると思うとき、思わず体がひきしまり、感無量のものがありました。

拝啓 
長らく御無沙汰して申し訳ありません。父上、母上のより元気で働いておられる姿が目に見えるような気がします。お母さんは一人で台所の仕事や洗濯で疲れることでしょう。お父さんも山に行って薪を取ったり、畠をうなったりして、若い者ですら疲れるのに、老いの身で大変でしょう。しかし僕が立派な日本海軍航空兵として一人前になった晩には、必ずお父さん、お母さんを呼んで安楽な生活をさせますよ。待っておってください。
 僕達はいよいよ特別教育も終りになりました。今日臨時大祭で休みで、この手紙を書いた次第です。
 明日は行軍です。特別教育もあと一日で終るのです。
 今までやってきたことをふり返ってみますと夢のようです。来月は飛行機(襟章)が一つ腕につきます。しかし特別とくべ教育中の一日一日をふり返り考えてみますと、苦しいことも辛いこともありました。
 特に短艇などではもうだめだと思ったこともありました。しかし父上の言われたことを思い出して、何くそと元気を出し、何の落ち度もなく情までやって参りました。
 先に思っておったことは対して苦しくはありませんでした。
 これもお父さん、お母さんが人一倍体を丈夫に造ってくれたおかげです。
 分隊長が苦しい事をやりのけた後の心程、愉快なすがすがしい気持ちはないといっておられたが、僕の今の心はその心bと同じです。今日の空のように日本晴です。
 これからが僕達の本当の自分の力をだす時なのです。
 お父さんに誓ったあの言葉の通り、必ずやりとげますから待っておって下さい。
 この前の空襲の時は家の方はどうでしたか。日本はじまって以来の空襲でしたから緊張したでしょう。こちらは何ともありませんでした。あの日は僕達が土浦行軍の日だったのですが、取りやめになってがっかりしただけです。
 松ちゃんからは手紙がきますか。
 郁夫や敢司も元気で勉強しておることでしょう。
 ではこれでえ失礼します。
 お父さん、お母さんにはお体を大切にあまり無理をしないようにして下さい。
  敬具
 磐雄より

父上 
母上 様

原町国民学校初等科六年の仲良し仲間佐藤武、佐藤幸平、酒井力三君らと、三重海軍航空隊の中野に慰問文を送った、それへの返信。17年12月22日付、原町の方は雪が降って学校に通うのも寒いだろうね。然しポケットにも手を入れず胸を張って学校に仲よく皆肩をならべて行く姿が目に浮かぶようです。
 
 拝啓 君達の元気な手紙を見て、君達が元気で勉強に励んでいる姿が目に浮かびます。
 三重航空隊の方はまだ雪が一度も降っておりません。原町の方よりは寒くありませんが、鈴鹿山脈から吹きす風は相当寒く我々をおそってまいります。
 佐藤君は弟と一緒に商業学校に入って少年航空兵になる決心との事大いに勉強し体を鍛錬し少年航空兵になって下さいよ。然し航空兵になるには体が大事です。
 僕のいる兵舎の前は松林で、松林をこえるとすぐ海岸で伊勢海の静かな波が打ち寄せて遥か前方には島や対岸の日本アルプスの真白い雪を戴いている姿がぼんやり霞んで見えます。海には漁船が何隻となく浮んでおり、何とも云いない程景色がよいです。ではこの辺にてペンを止めます。l皆さんもお体を大切に風邪等ひかぬ様頑張って下さい。僕も早く一人前の飛行士になって米本土を空襲して見せます。それから皇太神宮の写真がありますから送ります。

18年4月末になって、二度目の帰省

6月
 父上、母上にはお元気のことと存じます。今月の二十四日予科練を卒業し、二十九日三沢空に入隊しました。
 いよいよこれから飛行練習生として、飛行機に乗るのです。
 訓練は予科練とはも9んだいにならぬ程、猛訓練に耐えてはじめて、立派になることができるのです。大いに頑張る決心でおります。
 お体大切に。  さようなら

19年2月、内地から台湾の新竹基地へ 約八ヶ月滞在 
遺書 泣くななげくな必ず帰る 桐の小箱に錦着て 中野磐雄

拝啓、父上母上には御壮健のことと存じます。私も戦地より内地に帰って以来元気旺盛頑張っておりますから御安心ください。内地に帰って暫く○○航空の基地におりましたが、面会出来なかったのを残念に思っております。
 いよいよ今日、又内地を発して第一線にむかいます。内地におる日数は短い時間でありましたが、こんなに印象づけられたことはありません。
 あちらに行って内地の景色や、水がなくてどろ水を飲んでいるので、谷川のすき通る水など思ひ出して、内地がこいしくなったことなどmじょあります。
 再び内地の土をふんだ時、内地の土だ、内地の土をふんだ、と皆喜んだのです。内地に帰って父上母上にお会い出来なかったことは残念でなりません。
 私の飛行機は戦闘機ですが、大いに頑張って敵機を落す決心です。もう再び内地の土をふむ事もないだろうと思います。
 この手紙が最後だろうと思われますが、便りがなくとも元気井出おると思っておって下さい。時間がありませんからこれで失礼します。
 遠い前線より父上母上の御健康をお祈り致します。
 昭和十九年七月十日 敬具
磐雄より
父上、母上様
 拝啓 お父さんお母さんには御壮健のことと存じます。私も元気旺盛戦地の○○に戦闘機乗りとして頑張っております。敵グラマンなんのそのです。  
 この手紙は内地に行く同期生に頼んだのです。
ちょっと前、最前線にて敵のB24を一機おとしましたよ。
 時間がありませんからこのへんにてまとめます。
 お父さん、お母さん元気でやって下さい。
  昭和十九年九月
        

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