あの日の空も青かった 原町特攻隊ものがたり

70年前、世界中を鉄の嵐に翻弄させた大きな戦争が終わった。復興と繁栄と平和の次に、3.11という空前の天災と原発事故で、日本は第二の敗戦を迎えた。

バトル・オブ・ハラマチ.
作成: 二上 英朗 日時: 2011年12月2日 8:26 ·
バトル・オブ・ブリテン「英国の戦い」というタイトルの映画は、英国空軍のスピットファイヤー迎撃戦闘機隊が、ドイツ空軍のメッサーシュミットに守護された戦爆連合部隊の英国本土攻撃に対して果敢な防衛戦を繰り広げる作品で、リアルな戦闘シーンが展開される航空映画の傑作とうたわれた作品。
その最後の場面が、実にいい。消耗戦を強いられた英国空軍パイロットたちが、戦友を一人また一人と戦闘で亡くしながらも、次の敵機来襲に備えて空を見上げつつ、ある日、ついに静かにぱったりと空襲が止む時を迎えた場面。
ついに守りきった、義務を果たした、という空気にみちて、静謐な飛行場の青空に白い雲が浮かぶという。そこに、最後のクレジット字幕がかぶさって、心揺さぶるテーマが鳴り渡る。
うらやましいような設定です。わが原町陸軍飛行場では、最新鋭の陸軍一式戦闘機「隼」三型が配備され、軍国少年たちは心躍らせて訓練飛行する空を見上げ、これらの精鋭たちが、鬼畜米英を撃破するのだと信じていたのですから。
しかし、昭和二十年二月のある日、大挙して襲ってきた米海軍機動部隊の艦載機グラマン戦闘機とアベンジャー雷撃機の戦爆連合の攻撃来襲を受けて、わが飛行隊は一機も飛び立つことがありませんでした。蹂躙され、反撃も出来なかった。
さらに8月9、10の両日も、完膚なきまでに銃爆撃を受け、防空戦闘機は一機も反撃に飛び立たなかった。決定的な反撃のために戦力を温存させるという方針だったそうです。反撃というのは、特別攻撃という、自殺行為による最後の捨て身の作戦だという。 神鷲第204部隊という那須野で結成された特別攻撃隊は、特別操縦士官養成という、学徒の促成栽培で飛行機を操縦する事だけを訓練したパイロットたちを、最後の特攻要員にして待機させた。
千葉の松戸では二式複戦「屠竜」に37ミリ機関砲を積載してB29を何機も迎撃し撃墜していた。原町ではこてんぱんに爆撃されて、滑走路は凸凹にされ、岩手から出撃した99式軽爆撃機が、着陸できずに山中に墜落。同期の学鷲隊員が、原町でしがいをけんぶん遺体を検分したという。今迄見えなかったデイテールがだんだん見えてきた。敗戦から66年たって、バトル・オブ・ハラマチの実態が…・。
昭和20年8月11日、空襲警報は鳴った。12日にも警報はなった。しかし敵機はこなかった。原町の人々の胸には、あの連日の嵐のような空襲のダメージが、轟音とともに皮膚感覚に残っていた。次の空襲に神経が備えていた。
13日、午前5時半、警戒警報発令。40分、空襲警報発令。
8時20分、空襲警報発令。午前中、空襲二回、午後一回。
警報はずって鳴っていたが、午後5時、ようやく解除された。

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