早川英夫海軍兵曹長の足跡  早川範雄
大正14年(1925)8月23日生まれ
 父英二 母梅代 弟二人 妹四人
本籍 福島県相馬郡大甕村北原字東原
住所    同    村折ケ沢

昭和13年(1938)原町立原町小学校卒業
    原町小学校までは約1km、大甕村立大甕小学校までは約5kmのため、町と村が協議して、字折ケ沢地区のこともについては、委託入学を認めた。
    中学1年になった英夫兄に連れられ、小学校にあがる前の私が、4kmほど離れた父の生家(北原日東原)に行くため歩いていたときに、常磐線の踏切の手前左側の商店を過ぎた下り坂のところで、太田村牛来の和田さん(親戚)であと記憶しているが、カメラを肩にかけ、自転車に乗ってきた男の人が、写真を撮ってやるから、といって、私たちを並ばせ、無線塔(高さ200m)を背景に撮ってくれた写真が、私の記憶にある唯一の写真であり、現存している。)
昭和17年(1942年)福島県立相馬中学校4年修了
    修業年限5年であるから、4年で中途退学したということになる。
(在学中は、旧制二高(現東北大学)受験用の英語、数学などの参考書を使って勉強していたほか、柔道部、競技部、野球部、庭球部、園芸部、書道部などの所属して活躍していたようである。「書」が得意であったのは、現存する手紙や作文からもうかがえる。この英語、数学などの参考書は、私が昭和26年に東北大学を受験する際には、紙不足であまり参考書の類のなかったこともあり、結構役に立ったと記憶している。)
当時大甕村出身者で県立相馬中学校に入った人は、汽車通学の便の関係もあり、私たち兄弟3人以外では数人程度か。私より2年後輩からは、新制高校の学区制の関係で、原町方部からは県立相馬高校へは行けなくなり、県立原町高校に行くことになった。
私が県立相馬中学校・県立相馬高校で習った化学の栃本保先生は、県立相馬中学校で英夫兄と同期であったが、私が模擬試験で1番になったりすると、いつも「君の兄の英夫君は、成績がよかったが、文武両道、よく勉強し、よくがんばったもんだったよ。しっかり、兄貴を見習いたまえ」と励まししてくれたものである。
昭和17年 海軍航空隊に入営
昭和18年 海軍航空隊で精励す

昭和19(1944)2月」20日 (第553航空隊配属)
昭和19年官房人事機密第415号ニ依り
昭和19年2月21日付 はがき 大分県相良航空隊 早川英夫
昭和19年3月17日付 葉書 福岡県築城基地 藤野部隊第9分隊 早川英夫
昭和9年4月14ハガキ 同上

第553航空隊(隊長藤野寛海軍大佐)には、攻撃252飛行隊(彗星艦上攻撃機)のほかに、攻撃102飛行隊(99式艦上爆撃機)が配属されており、その搭乗員のうち偵察員は、第32期飛行練習生(偵察)(上海組)の24名で、佐伯基地で実戦訓練を7受けていた。
この24名のなかに英夫兄がいたことは上記の葉書から裏付けられた。

昭和19年 5月または、6月頃の、暖かった日(日時不詳)

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