ビスカイノ、海岸を視察す

中村城は1610(慶長6)年まで相馬氏の隠居城として使われてきた時期を含めて戦国期には小高城の支城であったが、その後、10年ほど無住のまま城番も置かれず、荒れたままにされていたので、新たに居城とするにあたって「やぐら」と「だいどころ」の造営と、小高城からの「大書院・おおひろま」の移築を重要な工事としていたのである。(相馬市史」4・資料編1奥相志、相馬市・1969年3月33~38p)
 そこに陰暦10月28日の震災が起きたのである。建築中の建物は、地震には弱いものである。とくに組み立て中であったりすれば、なおさらである。利胤がビスカイノに「城が破損し再築中」と言ったのは、「破損」についての言及はないが、津波の原因となった地震によるものとみて間違いあるまい。あえて「建築中」と言わずに「再築中」と言っているところに、地震による「破損」という含意が窺える。とにかく利胤は「破損」箇所の陣頭指揮にあたっていたのである。そして、津波に関しては、はっきりと城下となる中村の「市」、すなわち町も「海水」の漲溢により海岸の村落に及ぼした被害の影響を受けたり」と言っているわけである。当時の震災の状況が領主の口からビスカイノに伝えられ、イスパニア語(スペイン語)で記録されたものを、ちょうど400年後の3・11大震災の後に翻訳によって知ることができたとき、歴史的な情報の遺存がこうした奇遇ともいうべき形でなされていたことに、私は名状しがたい感慨を覚えるものである。
 3.11大津波によって旧城下中村町を中心として1954(昭和29)年に成立した現相馬市の海岸部である原釜・尾浜・磯部や景勝地松川浦に面した和田・岩の子・南飯淵・新田・程田・柏崎などの集約などの集落では多数の家屋が流出し、458名の死者が出ており、これら集落を歩いても、瓦礫が整理されてしまってからは建物の基礎のコンクリートや礎石を見るだけで、どこがどこであるのかも見当のつかない惨状を目にするにつけ、津波に関しては利胤がビスカイノに伝えたことばは、東電福島第一原発事故による放射線禍ということがないだけで、そのまま現在の私のことばになるのである。
 なお利胤に会見したビスカイノは中村藩の奉行の案内で「海岸」と「二つの入江」の測量を行っているが、松川浦と新沼浦の「二つの入江」についてはイスパニア船の出入りには「余り用をなさざる」ものとの判断を下している。

 

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