第二部 もっとも長く暑い二日間
昭和20年8月9日、10日

サイパン島陥落

一九四四(昭和十九)年六月十一日、上陸準備の艦砲射撃が四日間続いたのち、海兵隊の二個師団が海岸に殺到した。陸軍の一個師団も翌日、戦闘にくわわった。日本軍は必死に最後まで戦い、七月六日、七日の夜の、この戦争最大の特攻的「バンザイ」突撃はめざましいもであった。「一人で一〇人の米兵をたおせ」とはげまされて、三〇〇〇人以上の日本軍は陸軍師団の正面に突撃し、大きな損害をあたえたが、全員戦死した。七月九日までに、すべての組織抵抗はおわった。日本軍の戦死二万三八一一人、アメリカ側は三四二六人が戦死または行方不明、負傷三〇九九人の損害をだした。
これは高価な勝利であった。ルーズベルト大統領は、この作戦を「偉大な成功」と考え、七月二十日に友人への手紙で、この作戦は、日本の工業地帯を「容易に爆撃できる」距離にある基地を米国にあたえtくれた、と説明している。
※ カール・バーガー「B29・日本本土の第爆撃」より

森岡利衛さん(橋本町一丁目)は、サイパン島守備隊の生き残りである。同守備隊は、七月に玉砕した。だが、一部の兵士は終戦近くまでジャングルの中で米兵の追跡からのがれ続けていた。
森岡さんは実に一年間、昭和二十んん七月まで逃げていた。俘虜となる前後、凄まじい数にのぼるB29が、かつて日本軍飛行場であったものを奪取したのち、ただちに修復増設した滑走路から、日本本土爆撃に向けて飛びだってゆくのを目撃した。
滑走路に並んだスーパー・フォートレス(超空の要塞)は、アメリカの国力の象徴であった。B17爆撃機がナチス・ドイツの息の根を止めたように、B29は大日本帝国を壊滅させた。
だが、この巨大な銀色の翼の下で死んでいった大多数の日本人は、非戦闘員である一般人であった。
門馬太氏は語る。
「サイパンが陥落してからは、毎日のように警戒警報が鳴った」
「サイレンが鳴れば、家で休んでいる時でも主人は学校へ出かけてゆきましたから、ほとんど家に帰れなかった。大変でした」と門馬夫人。
「(旧相馬農校の当時の教諭)今野清助先生が御真影の避難係dした。毎朝、今日空襲があったらどこへ逃げようか、という相談でした。サイレンが鳴るたびに風呂敷に包んで首に巻き付けて避難の準備をした」
鈴木考紀氏手記。
「村のくらしは、農作業とその合間に防空壕を掘り、小学校の校庭で行われる竹やりの訓練に参加し、夜は寝床の中で、全国のどこかが襲われている空襲情報をラジオで聞くという日常になった。
田舎に住む者の気楽さがそこにはあったがしかし、この楽観も破られる日が来た」

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