明治14年5月18日、中村の区裁判所から富田に呼び出し状が来た。富田は病中なので富田に代って吉田恭重が二十五日に出頭した。これは浪江町の谷田伊信(鯉平)なる者が、新潟県人の箕輪午之助を代人として告訴したもので、過ぐる戊辰戦争の折、中村藩の官軍への降伏和平の緒の開けたのは、谷田が官軍の太田桂太郎と接触したからであったにもかかわらず、その功績を他人に奪われ、あまつさえ理由もわからず入牢の咎を受けた。これは戦争収拾に当っていた冨田の責任だから、その間の損害七万円を請求するというものであった。戊辰の際、中村藩が金性寺ら三人の僧を官軍に派遣したことはあったが、谷田の行動も入牢のことも富田は何等関知していなかった。裁判所もこれを了承して、勘解が成立した。谷田の入牢が事実だったとすれば他に何か罪状があったのであろう。
(富田日記解説・)

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