86 藤田魁の一生
 藤田魁は次のように書き残している。
「陣笠羽織の軽装で競馬に参加するのも面白いが、甲冑に身を固め人馬入り乱れての争奪戦の只中に入って活躍する気持ちは壮絶というか快絶といおうか、男としてなんとも言われ部痛快さが湧いて来るのだ。観覧車はいう、この真夏の暑い盛りに重い重い甲冑を着、汗だくになって人馬ともに奪い合うなんて馬鹿の骨頂ではないかと。しかしこのお祭りに一度出た騎馬武舎は必ずまた来年も咲かせずにはいられなくなる。こうして出場回数二十年三十年に及ぶ人々はざらにあるし、それ以上に及ぶ熱心家も決して少なくはない。それどころか、孫子の代まで続いて出る家もあるのだ。」
 野馬追狂ともいうべき藤田のような人々によって、この祭りは今日まで脈々と受け継がれてきた。
 太平洋戦争が苛烈をきわめ、とうとう本土吸収が開始され、原町の空にも何回となく警戒警報が鳴り響くようになった昭和二十年夏。
 ついに伝統ある相馬野馬追も、一年旧酢することが決められた。藤田は無念の思いを抱きながらも、野馬追の日取りが来ると、ただ一騎で愛用の甲冑に身を固めた。
 「先祖伝来の旗指物を背に負い、空襲警報(警戒警報と思われる)の鳴り響くさなかに、別所の舘跡に鎮座まします太田神社お妙見さまに駒を進め、心をこめて戦勝祈願をした事であった。こんな事は今日まで私を取り巻く二三の人々よりほかには知る人も無かったろうと思う」
 そんな藤田であったから、昭和四十四年に相馬氏三十三代当主の和胤公が結婚し、これを記念して初めて総大将として出陣することを知って、喜びに勇んだ。
 三十有余年の間、事故もなく出馬していた藤田も、動脈硬化症、胃潰瘍、心臓病と、続けざまに病に冒されて出馬を断念していた。
 しかし、おおかたの推挙によって中ノ郷大将に就任。釉薬、出陣した。
 「暫くぶりの出陣hsまた何とも言えぬ楽しさがあり、特に和胤様の御慶事を祝福しての御供とあっては嬉しさがこみ上げてきた。当日は水色の母衣を背負い、円山の星兜には饅頭の綴、紺裾濃大袖に胴丸の鎧を着用し、水色地に白丸の指籏をなびかせ、鹿毛の軽種馬に跨って家を出た。駒も勇めば心も躍る。病気などはいつの間にかふっとんでしまった」
 藤田魁は、原町市史編纂委員の一人として、茨木健守谷町、岩井市、千葉県流山市、霞ケ浦のほとりの信田郡、行方地方などの実地調査もしている。教員として画家として、また行政マンとして文化財愛好家として編集者として、地域社会でスーパーマン的業績お残して世を去った。
 その原動力は、貧しい幼少時代の夢であり、憧れであったと言えよう。彼の人生はどの局面においても相馬野馬追にうながり、その意味で幸福な一生であった。

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