弓形の宿

「はらまち」か「はらのまちか」
昭和11年に、原町役場で論争が起きていた。自分たちの町の名が「はらまち」と「はらのまち」と併称されてきた、正式な名称はどちらなのか、という純粋に行政マンとしての関心と、なぜ二つの名称があるのかの理由への歴史的な関心と。当時の福島民報支局佐藤一水は興味を持った。もとろん自分が太田村の出身で、郷土への愛着と尽きせぬ興味が膨らんだ。一水はアメリカに移住して視野を広めていたが、自分の故郷の歴史には疎かったであろう。
明治三十六年に発行された「原釜案内」という冊子に「原ノ町情勢一班」という付記があり、こんなふうに書いている。
「○名称 当町は陸前浜街道の駅次にして元南新田村と称したり、而して駅名を原ノ町と唱ひたるは雲雀野の広原あるに因めるもんいして、弓形の宿と呼びしは市街の形に取れるななるべし。町村制実施の切原ノ町を以て其名としたり」とある。
原町は、その形から弓形の宿、という名でも呼ばれていたらしい。
昭和の戦後になってからも、この弓形の宿の呼称は忘れられていない。
昭和26年度(27年7月発行)の原町要覧の「沿革」には、
「1、奥州行方郡と称し陸奥街道の駅で弓形をして居たので弓形宿と称す。
2、相馬藩主が下総国より当地方に移封した時始めは太田と小高に在った。
3、中頃に石神村の牛越に居を築き新田川の沿岸に城下町として開市した。
4、後慶長八年中村に移城する
5、相馬藩が政務中毎年行って居た野馬追を原町の雲雀ヶ原を挙行地として居た。
原町になお御殿と称する陣屋あり藩主の宿泊所となって居た
(現在役場のところ)
6、嘉永6年原町全焼する。
7、明治三年戊辰の役に再び焼失する。
8、藩主版籍奉還中村藩知事となり里正時代となる。
9、明治四年里正を廃せられ区会政治となる。
10、区会は第三大区四小区と称し、原町石神高平の三ヶ村全部と大甕村のうち萱浜、北原の会合なり長を区長とし各村に用掛、総代があった後什長と改め明治12年4月戸長役場制実施する
12、(11がない)明治22年町村制実施の際南新田、桜井、上渋佐の四ヶ村を併して原町村と称し併合村を大字とする当時の戸数300戸、人口1500人。
13、明治30年6月原町となる。
14、明治31年4月3日原町駅の開設を見、長足の発展をした。」
この箇条書きは、のちに原町役場が作成した「歴代町長の写真」というアルバムに、こなれた文章で収録されう。町制の末年の昭和28年に、記念に作製したものと思われるこのアルバムには、手書きの「原町の沿革」があり、その冒頭に
「一、相馬藩主が下総国より当地方に移封された時始めは太田と小高に城をへたが中頃に石神村に移ったため新田川の沿岸が城下町として開市されたのが原町発祥の因である」としている。その筆法が「中頃に」などと、そのまま要覧から引用されている。いつの中頃を意味しているのか不明だが。慶長の中頃の意であろう。
「二、奥州行方郡と称し陸奥街道の駅で弓型をしてゐたので弓形宿と称した」
「三、現在役場の位置は相馬中村藩が政務行事として野馬追を雲雀ヶ原で毎年行ってゐた際の藩主の宿泊所たる御殿と称する跡である」
「四、嘉永六年全焼明治三年戊申の役に再び焼失したが雲雀ヶ原平野新田川渋佐浜とふ集団生活の要素をそなへてゐたため漸次発展してきた」
などの書きぶりが、まったく要覧から引き写しているし、間違いもそのままだ。
原町宿が焼き討ちされたのは、正確には慶応四年すなわち戊辰の役であって、この年九月に明治元年と改元される。「戌辰」でも「戊申」でもない。
あるいは同一人物が書いたのかも知れない。アルバムには昭和28年の当初予算まで掲載されているので、この年つまり町制最後の昭和28年に作製されたと思われる。この年は
「十二、現況(1)人口一七二三人 所帯 三四三五
(3)財務 昭和二十八年当初予算 四千二百万円
(5)産業 農家五〇〇戸 農家人口 三〇〇〇人
商業四〇〇店舗 商業人口 一四〇〇人」などの規模である。
「十、昭和二十年空襲を受けたが被害僅少直ちに復旧す
十一、昭和二十二年終戦に伴ふ政治形態の変革により公選町長となる
福島県行方郡南新田村外二十三ヶ村
戸長
明治十七年  佐藤行重
明治十八年  里見守正
明治十九年 馬場勝之進
福島県行方郡原町村長
明治二十二年 馬場勝之進
明治二十三年 門馬剛
明治二十七年 山岡隆剛
明治三十一年 原町」と書いて、アルバムは初代町長のページにいたる。
ただし原町村が原町になったのは、明治三十年である。アルバムに記された佐藤徳助の正確には明治三十年の就任年を明治三十一年としてあって、どうも記憶だけで書いているふしがある。
加えて、佐藤徳助は初代町長ではない。
実に多くの郷土史が、佐藤徳助を初代町長と認識していた。昭和43年に「原町市史」を編纂した草野信も、のちに年表を担当した広瀬弘も、明治の先人たちを忘れてしまっていたのである。

 

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