落穂ひろい小高町に集団疎開した児童らの落穂ひろいの様子

学童集団疎開(四)疎開生活の日常化と戦局の終末化 青木哲夫 「生活と文化」豊島区郷土資料館研究紀要第24号23p 2015年3月27日

相馬郡中村町(現相馬市)に疎開した長崎第五国民学校(現千早小学校)五年生の真板久子が一〇月二六日付の姉昌子あての手紙で「今日はいなご取りに行きました」と書いたようにいなご取りをした。真板久子は続いて「東京にいた時はいなごなんてつかむのはこわくなかったが、こちらにきてこわくてなかなかつかめません。私は長い間かゝって約十匹しか取れませんでした」「いなごは学校へもっていって私たちが食べるさうです」と述べている。(真板栄一編「疎開の記録」二五頁)

1944(昭和19)年の福島民報には、鹿島町の農村をめぐるニュースとして、次のような記事が見える。神尾千鶴子が日記に描いた「落穂拾い」の日時が、この記事にあるように13日に行われたようだ。

鹿島の供米

相馬郡鹿島町では町役場と農業会に協力督励の結果大字南右田方面の塩害にも拘らず予定の収穫を見たので十日第三期早期米の抄出を完了。更に鋭意稲抜き籾摺を促進来る三十日頃までには割当全部完了すると意気込んでゐる

鹿島校の落穂拾ひ

相馬郡鹿島国民学校のヨイコ一同は十三日町内水田の落穂拾ひを行ったが五十石内外に達する見込

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