大正時代の野馬追

日程変更めぐる論争

佐藤徳助一派と、太田政輝一派との間で野馬追日程をめぐって熱い論議が交わされたのは、太田政輝の影響力の最も大きい、大正2年から4年である。大正2年に野馬追復興の功労者として、また日清日露戦争の戦費を寄付したり、村の教育資金を献納したりの功績に対して、生前顕彰碑を建てて貰った太田の鼻息が最も荒い時期にあたる。
商家出身の佐藤徳助、半谷清濤、佐藤政蔵らは地域の将来を見据えて観光に活路を目指して、夏の暑い盛りの野馬追を避けて、東宮台覧(大正天皇)を記念し10月9日に移せ、という日程変更論が出たのは明治からで、43年の民報に「近時野馬追の期日を変更して東宮殿下行啓の日を以てせんとするの議あり」とある。いよいよ激論になったのは大正2年。太田は猛烈に反対する。
「原町一部商略家と結び延期絶対に反対を唱へて遂に例年の如く」実施と決定したが、有栖宮が薨去して音曲禁止令が出たため、あわてた原町だけが11日からの祭礼日程を14日からの実施と独断で決め、中村、小高ほか他町に延期を通牒した。祭礼延期と知り、中村、小高の見物人は落胆、立腹し、準備をしてきた中村郷、北郷は、原町に対して延期禁止を決定しておきながら、「今更専断に延期とは許せぬ」と無期延期を断固申し入れた。このときは原町側委員が叩頭陳謝して何とかおさめた。
日程をめぐっては、さらに揉めた。

05-03)大正時代の原町風景
カラー絵葉書も出ているが明治の撮影写真に石版印刷で彩色。

大正2年
7.12.民友  野馬追は延期
7.13.民友 野馬追の紛擾

7.16.野馬追の壮観
子爵礼状の来観 澤子姫、元子姫の両嬢
7.17.黄塵天に沖す 好天気の為め
7.18.小高の野馬懸 幼年校生の参観

大正3年福島日日
6.13.野馬追祭日変更の議(一)
6.14.野馬追祭日変更の議(二)
6.16.野馬追祭日変更の議(三)佐藤徳助
6.19.野馬追の準備
6.20.野馬追祭日変更不可論 太田神社氏子某姓
野馬追祭日変更不可論(一)
太田神社氏子某姓
兎に角人意を以て妄りに定むべきにあらず宜しく御神慮に問ふべし右に就てはさきに野馬追祭を再興し其祭日を定めたるは県社太田神社なれば是れ亦太田神社の御神慮に依らざる可からずと中村神社、小高神社両神職及ひ氏子総代一同慎重審議の上太田神社の社司数日沐浴斎戒して太田神社の御神断を仰きたる結果今の七月十一、十二十三日に変更改正したるなり(以下略)
6.24.問題の経過(上)佐藤髭郎 6.25.問題の経過(下)

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