作成: 二上 英朗 日時: 2011年12月4日 7:44 ·
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松永のアイスキャンデー物語 松永時雄
戦争終結と同時に松永家には東京あたりから焼け出されたり食糧に困った親類、知人や戦時中原町飛行場にいて復員してきても帰る場所のない兵隊たちがぞくぞくと集まり、一時は十数名にもふくれ上った。大の男がゴロゴロしているさまはさながら水滸伝の梁山泊そのままである。母や姉は食糧集めに苦労した。ほとんどの衣類は食糧に変わった。僅かばかり残った山林を米に換えたのもこの時である。家族やこの集まった連中のためにも、ただ呆然と腕をこまねいているわけにはゆかなかった。各自になんとか身のふり方を考えてやらねばならない。しかしこの大所帯の命運を双肩に担うにしては私は未だ青臭い年齢だったのである。 何か仕事を始めよう。敗戦で本土の至る所焼土と化した。そうだ。今多くの人が求めているのは食糧と建築資材だ。しかし戦の敗れた国内には何も残されていない。強いてあるものといえば空気と土と水だけだ。いろいろ思案した。空気からパンを造ることは到底できそうもない。そんなら土を使って何か出来るものはないだろうか。これ程国中至る所戦災を被っている。建材は絶対必要だ。そう思って古山陶器店の親爺さんと相談した。手始めに瓦か煉瓦を造ろうではないかということに意見がまとまった。そこで煉瓦製造に適した土を探して原町周辺アチコチかけずり歩いた。苦心惨憺して遂に夜之森公園西に煉瓦製造に適した土層を発見したのである。小躍りして喜んだ。さっそく地主であるK家に発掘の許可をお願いに行ったら、いとも簡単に断られてしまった。 万事休す。残すところは水だけである。水を冷凍してアイスキャンデーを造ったらどうだろうということになった。しかしその機械がない。しかも機械をを購入する金もない。やっとのことで工面した金に、親類、居候の分もかき集めて二千五百円程になった。それをしっかり腹巻の中に入れて上京したのである。旧円が封鎖になる五日前の事である。当時上野行きの汽車は闇米を運ぶ人で超満員。窓ガラスなどは破れて一枚もない。便所の中まで乗客が詰まっている。異臭でムンムンする。漸くのことで東京に着く。東京は見渡す限り焼け野原。瓦礫の山であった。 それからがまた大変。焼け残った機械屋を探してどんな機械でもいいからと交渉して歩いたが、満足な機械は手に入らない。家で私の帰りを待っている連中のことを思うと気が気でない。それでも上京後三日目に遂に見つけた江東楽天地で、キンシウイックという機械だ。持ち主からは自分で使用するのだから絶対譲れぬと断られる。こちらは真剣だ。誠心誠意。真心を披露してお願いした。ねばりにねばって交渉すること数時間。相手は最後に根負けして快く譲ってくれた。 お金も旧円で決済してくれた。機械が手に入ると決ったら、猛烈にお腹がすいた。考えてみると朝から何も食べてない。神田駅のガード下で一杯十円の雑炊を食う。うまい。良い味だ。食べているうちにドンブリの中から煙草の吸殻が出てきたのにはびっくりした。 店のおやじに見せたら、これは進駐軍の残飯を集めて作ったものだから時々ゴム製品なども入っているとケロリとした顔で答えた。闇市の立ち並ぶ雑踏のなか何処へ行っても「林檎の歌」が聞こえてくる。

水にサッカリンで味付けしただけのアイスキャンデーはよく売れた。飛ぶように売れるというのは、この事をいうのだろう。秋市に町に出たお客が震えながらキャンデーをかじっていたりして、これが冬の最中まで売れたのである。一族郎党みながんばって働いてくれた。 駅の売り子もした。最初は恥ずかしくて窓の客も見上げることも出来なかったし、もちろん声も出なかった。中野屋の考チャン、石田屋の新チャンも一緒に駅に出て売り子として働いていた。キャンデー、アイスクリームが売れて売れて、金がジャンジャン入ってきた。しかしその金で購うことの出来る物は何一つない。そうするとこの金は一体何なのだろう。紙屑同然だ。その札束を眺めてなんとも空しくなってきた。そんなら金で儲けるより信用で儲けようと決心した。従業員を集めてアイスクリームも牛乳も絶対品質を落とさないよう気を使うように命令した。そのためか原ノ町駅の牛乳もアイスクリームも常磐線随一とか頗る評判が良かった。その後あちらこちらの駅でアイスクリームの販売が始まったが、お客が原ノ町駅まで来て購ってくれて有り難かった。 昭和天皇東北巡行のみぎり、特に御注文になられ、特製のアイスクリームを作って献上した。もっとも陛下が召し上がられたかどうかは判らなかったが、その礼として恩賜のタバコを戴いて従業員と頒け合った。

松永時雄氏が叙勲記念に出版した文集「おやじ牛涎先生らくがき帖」より「つぎはぎ人生 私の履歴書」自叙伝から抜粋1991・こはた印刷。

松永時雄夫妻が盛装して、オオハラ写真館から出ていたところに偶然ばったり会った。勲章と勲記を、7万円もしたという特性の額に入れて、一緒に記念写真を撮影したところであった。 拙著「秋市にサーカスが来た頃」には、昭和二十二年に天皇が原ノ町駅に巡幸された際に、車中でアイスクリームを食べた話は侍従の随行記録にちゃんと書いてある、と記録しておきましたよ、と社長自身にお伝えした。

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