小学校同級生代表 大島基重
昭和十九年十月二十八日夜、ラジオ臨時ニュースの大本営発表に耳を傾け、大戦果に聞き入りました。その武勲赫々たる第一神風特別攻撃敷島隊の中に君の名を聞きだし、あの中野君がレイテ決戦を勝ち抜き国難をうちひらくために肉弾体当たりを敢行したのかと驚異と畏敬の念で一杯でした。
翌日(二十六日)の新聞を貪り読み、私たちの同級の君が第一特別攻撃隊員として、国のために自ら進んで敵空母に刺し違えたことを、十九歳の若い体を捧げたことを、私たちは物の怪にとりつかれたように君の偉業について話し合い、人に対しても自慢致しました。
当時県知事を始め、原町当局、そして小学校中学校の母校もこれ以上の名誉はない、として中野磐雄に続け、第二の中野たれ、と訓示されたものでありました。太平洋戦争は吾に利あらず敗戦を迎え、私達は生きるため一生懸命働かざるを得なかったし、同時に道徳は荒廃の一途をたどり、君の偉業については私たちの頭の片隅にありながらもほとんど語られることもなくなってきたことは、甚だ残念なことであります。そして君が身を挺して国を護ったことに対しても申し訳ないと思いながら三十余年も経過し、今にしてようやく君の偉業の万分の一に報いるため慰霊胸像を建立することが出来たのです。
思うに君は原町市本町三丁目中野家の末っ子に生まれ、恵まれた家庭環境のもと、原町小学校、相馬中学へと進まれ、生来寡黙にして、うちに強固な意志を秘め、不言実行型であったと思われます。その講堂は相撲やスポーツの面に表れ、常に私たちのリーダーでありました。
この除幕式を行っている夜の森公園では毎年小学校の運動会が行われ、君はクラスのホープとして先頭を切って走った姿が今彷彿として目に浮かび、また新田川や西の河原では放課後カバンを投げ出し水浴びに興じたものであり、或る時は中学進学のため居残り勉強中教室を抜け出し水泳ぎに熱中し過ぎ、夕暮れ時あわてて学校に帰り担任の植松先生より大目玉を喰ったことも今は懐かしく思い出されます。
冬、これも進学のため植松先生宅に夜学に通い、君の兄が経営していた店の大学芋を寒空の頬張ったことなども思い出されます。
そして君はいよいよ予科練へと進まれ、十九年の九月頃であったかと思いますが、最後となった休日には、原町に帰省して友人宅を訪れ「俺は飛行兵として皆にアッと言わせて見せる」と言っていたそうで、君が特攻隊の出来ていない時期にすでに密かに何事か重大覚悟をしていたように感じられます。
今、君の胸像は君の幼き頃運動会をやった公園に立ち、それからまた毎年小学校の遠足で行った阿武隈の山々の見える位置に置かれたことはもっとも君にふさわしいことであろうかと思います。
中野君。安らかに眠らんことを。そしてまた護国の鬼となり、吾が国を永遠に護られんことをお祈り申し上げます。 昭和五十五年十月二十五日 除幕式での建立発起人有志として挨拶

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