昌胤については、
「相馬弾正少弼平昌胤 従五位下
紋 繋馬
  九曜
 等々と縷々生地、家系、領地などについて詳しく記述があり、最期に
「家士富マズ。風俗宜シカラズ。然レドモ、心直ニシテ、義ヲ守ル。外様者少シ。家ノ子バカリナル故、国・江戸共ニ心易シ。民間モ亦、静也。地ニ禽獣魚シバ薪有リ。土地中也。」
 と相馬の土地について評している。
 肝心の昌胤自身についての評はといえば、
「才智と云へり」「畢竟、昌胤文学有りてその心淳直なるべし」「善将として褒美すへき者にや(ある)」
 と書いて、有名な浅野内匠頭長矩に比較しても、ほとんどべた褒めである。天下泰平の時代には、ほとんどの大名が「文武の沙汰なし」である。武士としての活躍の場は戦場になく、評価のしようがない。とすれば文化人としての器量をもって、人物をはかる方法しかなかったのだろう。その点では昌胤の印象は幕府にはよかったらしい。
 今に残る記録から類推すれば、ソウマ地方で史上初めてサッカーをやったのは、この昌胤である。サッカーと言っては語弊があろう。当時は蹴鞠の遊びである。公家の遊びであった蹴鞠をやるというあたりに文化人・昌胤の面目がある。

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