松本剛さんからの電話 2016.2.7.

小高出身の松本剛氏から長い電話で、私からの各種の問い合わせに対する返答の内容。昭和16年11月生まれ。74歳。
父は軍医として中国や南のインドネシア、タイなどに赴任していたが、ガダルカナルへも命令されて行ったが、輸送船が魚雷を受けて沈められて、何時間も漂流して泳いで命は助かった。タイでは病院建設に携わったので、捕虜になったときの待遇はよかったと聞く。
先祖は曽祖父、祖父、父の時代まで医師をやっていた。松本医院は、あぶくま銀行のとなりにあったが、現在は別な町で兄弟が医師をやっている。松本家から、原町の松本孫右衛門の家に嫁にゆき、そこで生まれたのが孫右衛門。浅からぬ縁がある。小高も川俣も機業の町で関係が深い。(で夫人が川俣町の出身)
自分は鉄道が大好きでしたが、通産省の航空運輸の航空管制官になり、その後は公社勤め。
(無線塔の本を注文されたことがきっかけで、郷土史への興味があって連絡をいただいた)
少年時代の思い出話から、常磐線についての記憶などなど。あぶくま銀行小高支店の東に開業していた松本医院という医師の息子として出生。
● 昭和23年に小高小学校に入学。子供のころの遊びについて
かくれんぼ。今なら鬼にされた者も、かくれる者も、それは虐待だと騒がれるかもしれないが、小高の町いっぱいが範囲のゲームだった。何日もかけて探す、鬼も、かくれている子供も、鷹揚なもので、一週間も、ゲームがつづく悠然とのんびりしたものでした。
ぱったといったメンコ、ビ―だま、釘差し、缶から蹴りなどなど、日がな一日遊びふけっていた。それから映画に行った。
自宅裏に小高劇場があった。毎夕、黄色いリボンという西部劇のテーマ音楽が街中に流れていた。レコードの終わる時間を見計らって映画を見に行った。一週間に一度は洋画がかかった、という。(芝居小屋小高座というのは、場所は同じで昔のその前身のようだ)
小高国際映画劇場というのも貴船神社の向かいの通りからは言った所に新しく出来た。が、あまり行かなかった。いす式だった。
いまのサッカーをやる子供と同じように、あの頃は子供達はみな野球をしていました。キャラメルの箱を集めて応募すると、野球の道具がもらえるというシステムがあって、思い切って送ってみたら、ボールを受けると手がしびれるほどの薄いのですが新品のグロープが当たったことがあった。友達にも教えて、友達もバットが当たった。棒きれと敗れた軍手ぐらいしか野球の郷愚のなにもない時代でしたから、いきなり少年野球チームが出来た。子供に夢を与えたいという菓子メーカーが、儲けを度外視して全国の子供に贈ったのでしょうね。夢のような、これ以上ないような体験で、子供時代の最大の体験でした。
小高は材木の供給地でした。駅前に材木検査所という機関がありました。
遊びに行った駅の敷地にあった石炭を失敬して自宅に持ち帰り、風呂にくべて燃やした。風呂を焚くのは子供の仕事でした。木切れの上に亜炭や機関車用の石炭を載せて火力を高くすると、石炭が高熱で燃える時の音がして、機関車を運転している気分になったものでした。
(東京の集団疎開児童がいたという件に就いては)92歳の避難している高齢者の女性に聞いてみたが、高橋旅館というのは全く聞いたことがないということでした。
●食糧難の時代
学校には冬季間に、弁当を温める箱がストーブに置かれ、昼近くなると、おかずのたくあんが温まって匂いを発するようになって空腹を刺激した。しかし、何人かの同級生は、自然と姿を消し教室からいなくなり、昼休み時間がおわる頃に、またどこからともなく姿を現した。
誰しもがいつも腹を減らしていたが、昼飯の弁当を家から持って来られない子供がけっこういた。(欠食児童という言葉があった)
戦後支援物資のミルクは、おいしいと思いましたよ。醒めると表面に皮が張って、それを上手に掬い上げて食べるので、二度おいしい。
(戦後の第二世代の昭和28年生まれのわれわれは、こんなまずい給食はないと思っていた)
●特殊な雰囲気だった戦後の学校
戦後の昭和23年に小学校に入学した。学校放送で、昼休みの時間に、聞きなれない外国語が放送されたことがあった。いまから考えれば朝鮮語だったのだろう。在留の外国人の教員もいて、プロパガンダが学校にみ横溢していた。GHQの主導で日本の独自の文化と戦前社会からの誇りが失われ、あらゆるものが激変した。「兵隊さん、ありがとう」という教育で育った子供に、復員してきて組合活動や共産主義でソビエト抑留された日本人の「自己批判」「反省の時間」などいった流儀が刷り込まれてきた教員が、そのまま学校教育の現場で児童達に強要する場面への奇異さも強烈だった。
冷戦当時に特殊な教員がいたのも印象的でした。憲法学者の鈴木安蔵さんは京都大卒ですね。鈴木てるさんはお姉さんですか。その息子さんの甥にあたる鈴木学さんはシベリア帰り。考え方や価値観は、人それぞれですが、GHQが日本の戦前のできごとも知る機会を遮断してしまったおかげで、日本は軍国主義の残酷冷酷な国ということになり、日本人は多くの誇りを失ってしまった。
●鉄道が好きで毎日、駅に通っていた少年時代
鉄道が好きで毎日駅に遊びに行っていた。顔見知りになって職員に入れ替え機関車に乗せてもらったりもした。岡田の踏切の信号取付け工事の現場にも通って日がな一日見ていた。学級内では、常磐線の各駅の名前を暗唱する競争を同級生と競い合って覚えたものでした。
長じて古物商の店で、カンテラ状の緑と赤の信号装置を入手しました。いまでは私の宝物です。また、キング・レコードが発売した常磐線のSLの実況録音レコードを持っています。C61やC62、D51などなど機関車の走る音、汽笛など、さまざまな音響が録音されています。常磐線の蒸気機関車が廃止された昭和42年頃の発売です。
私は、個別の機関車が夜間に走る汽笛の音だけでも個別の機種がわかるほど愛着がありましたから、小高駅で出発するときのかすれている汽笛なら〇〇、甲高く叫ぶようなら〇〇、などと、それぞれに判別できました。
●小高の産業について
小高町は絹織物の機業の町だった。町中が機織りの機会の音で、これをうるさくて仕方ないという町民はいるにはいたが、たいていの町民は、小高からこの音がなくなったら、小高の命運は終わりだ、と言っていたのも事実。ところで機織りの機械の音と並んで、生産された糸の精錬によって出る白濁した排水のにおいも社会的な問題でもあった。公害がいわれる今日と違って当時は有害物質の除去の技術も世論もまだまだだったので、騒音は容認のうち。白濁した排水も、町の当たり前の光景だった。東の海に流れる川に流れ込み、活気ある商都の副産物としてセットの思い出であったともいう。
●銀砂工場の半谷敬寿さんの豪邸の記憶
小高には銀砂工場という硅砂工場があった。ガラスの原料となる硅砂の生産地が金房の西にあって、トロッコで運ばれてきたものが、さらに鉄道で首都圏に運ばれた。経営者の半谷けいじという人物は、清寿とは別の半谷。駅前の工場の敷地内に豪邸を構え、その存在はいなかの小高の町では抜きん出いて目立った。まるで、ちびまる子ちゃんに出てくるはなわ君のような親が海外と商売して自宅の豪邸に使用人がたくさんいて、そこの子供は同級生とは別世界の比較にならぬほどの金持ち階級だった。
戦後、進駐軍列車というものがあった。アメリカ軍が日本を占領するようになると、小高駅を通過する時には、駅の構内で、その列車の窓から1セント硬貨がばらまかれる光景があたりまえだった。
子供達は、「ギブミーマネー」と覚えたての英語を叫んでそのたびに列車に群がった。喜々としてばらまかれた菓子や硬貨を拾った。覆いをかぶせられてもわかる大砲や兵器類が運搬される景色も日常的にあった。
自転車で原町無線塔の下のアメリカ軍基地まで行ったこともある。正面入り口には日本人の守衛がカービン銃を構えて警備していた。
● 先人の政治家山尾清海の先見性など
小高は勉学を尊ぶという気風の強い土地柄があります。
小高には農業高校があり、さらに工業高校ができた。あんな小さな町に二つも高校があったというのは、鈴木治郎(重郎治)という町長や、建議山尾清海という政治家がいて誘致に尽力したからだと聞いています。これからの日本は、産業立国で工業に力を入れなければならないという持論だった。小高工業高校は就職率も高かったので、これは先見性のある卓見でした。
(原町には戦後町長から市長になった渡辺敏という政治家が、工業高校の誘致のために小川町に学校用地を準備したいたのに、隣町の小高に工業高校が横取りされて政治的な失態だったとの批判が大きかった。山尾清海の記念碑は小高工業の敷地にある)
●小高出身の人材など
東京裁判で通訳をした東大卒の人物がいましたが小高出身です。平田良衛さんも東大卒でした。
東京で小高出身者と集まる機会があると、右も左もなく、みな自分の考えをしっかりと持っている。自由闊達に議論します。相馬弁丸出しで語り合い、楽しく盛り上がっていますよ。

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