7/18 丸森町に行く 伊具三城をめぐって

おととしの暮れに、丸山城はじめ要所の伊具三城などの高台をつないで、伊達政宗生誕450周年の特別イベントとして、狼煙を実際に体験してみた町の有志たち。小斎地区を代表する伝統行事の「弓」武道の披露。政宗の祖父が築城し、娘を嫁がせた相馬義胤が舅の没後に居座った丸山城は、駐車場の三株のアジサイが歓迎してくれた。
相馬と伊達との微妙な姻戚関係のもつれと戦国時代の人質交換による平和の技術というバランスでなり立っていた。小さなぶりの山城が、岩をうがつ樫の百年の巨木のみごとさには息を呑んだ。頂上に遺る墓誌も、見事である。
戦国から近世へと橋渡しの時期に、義胤というひとのエネルギーをこそ感じてきた。
奥州相馬野馬追という行事の発生は、その周辺の平和が基本的な基礎条件だった。
現場を伊達の側から見てみよう。最後まで落ちなかった金山城について相馬側の後世の「奥州茶話記」は自分に都合のよい「和睦なって、伊達に譲った」という記述がいかにも、嘘くさい。
伊達側の「伊達秘鑑」は同じ部分を「金山の城は天正十二年(1584)になっての返還」について、ようやく相馬・伊達の間の外交交渉について、伊達家臣が「金山の城は天正十二年の正月に落城させて、手に入れたもので、和睦によるものではない」と力説している。相馬の人間は伊達の史料を読まない人ばかりだから、理性的な止揚的推論をせずに、極端に勝手な「伝承」で自家中毒する傾向が強いようだ。
伊達家「治家記録」の天正十一年の項目に「両城(丸森・金山)ヲ、攻取リー玉フ事、今年ヨリ来春に至ル間ナリ。年月不詳」とあり、けっこう詳しいだけ、ものを書く人間の習性として、どんな人間がどんな嘘を書くか、においがする。

丸森の地名の由来となった丸山城にのぼってきました。
二か所目に小斎城に行ってきました。丸森町内だが、角田市との境界に近い。
三か所目に金山城に行ってきました。相馬藩が伊達領内に食い込んで最先端の要害だった。急坂に、体力へろへろ。相馬義胤時代の伊達相馬伊達との濃密な婚姻と、家督相続の騒乱。奪い、奪われた現場を三城すべてあるった。
現場はいい。
あぶくま急行で、初めて丸森駅まで行く。片道800円。籏巻峠のある大内地区で自然薯うどん食べて700円。

そのまま原町まで戻って、石神の畑の真ん中で渡邊さんの母親が砂利採取の仕事に廣さんを幼時の頃に連れてきた河原をみながら、自動車道からの方角や距離を示しながら、かつて避病院のあった場所が判明したとのことで、教えてもらった。
二度にわたって、屋代つる代先生が二十歳の頃に疫病で隔離してこうねtyでうなされて死ぬかと言う体験談を聞かされた。
その生死の境を体験した場所こそが、この避病院と呼ばれる当時の唯一の医療設備だった。各村と原町にそれぞれ別々にあったという。

バスで帰宅。1100円也。5時半。

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