分教場開設の頃

もう一人。展示会場を熱心に見て回ったあとで、
「ここに展示してある写真を譲ってくれませんか」
という人物のことである。自分が写っているのだ、という。鹿島町の村井、と彼は名乗った。
第一回の現地募集で軍属として勤務した、という。
「これ、これ。深田中尉の後ろにいるのが私なんですよ。なつかしいなあ。よくありましたね、こんな写真が。」
写真は、飛行場関係者が記念撮影した時のもので、深田中尉というのは初代の飛行場長である。
村井氏は現地採用七十人の軍属のうちの一人で、同期の軍属に青田信一氏がいる。
青田氏は原町飛行場関係戦没者顕彰会の当初からのメンバーで、記憶をたどって詳細な飛行場沿革と見取り図を再現している。
「皇紀二六〇〇年
第八十四期操縦下士官学生終了記念
陸軍熊谷飛行学校原町分教場」
というのが記念アルバムの扉にしるされている題である。このアルバムの巻末の旧住所を手掛かりに、郵便局につとめる友人の折笠範雄氏の協力で、現在変更になっている地番であまり変化のないものを選んで頂いて、新年の賀状で数人の本籍地に照会してみた。
樺太市などという、すでにない地名の前ではどうしようもなかった。
そのうち一通に反応があった。以下は長野県在住の人からの返信である。
「新年おめでとうございます。
このたび思いがけない原町の方からお便りをいただきまして感無量です。
承りますと、私の住所をアルバムから承知されましたとのこと。確かに原町分教所では記念アルバムを作成した記憶があり、実は、その後の頻繁な異動や、荷物の紛失等から、そのアルバムは所在不明のため、当時苦楽を共にした僚友の所在がわからず、折に触れて気にかけていました。しかも、このアルバムの編集委員をやっていましただけに、アルバムのお話を承りまして、ことさらに当時のことについてご調査くださる、あなた様に対し、親近感をおぼえ、早速ペンを走らせている次第です。
さて、私どもが原町分教場でご厄介になりましたのは昭和十五年七月。当時、あの分教場は開設直後のこととて、どうにか操縦教育ができる程度で、その後の整備は専ら私ども課外作業によって行われたものでした。
したがって同期生のうち原町で教育された者たちは、他の分教場で教育を受けた者と違って非常に苦労をしてきたのです。しかしいまになってみると、このころのことが最も鮮明に記憶に残っております。もちろん初めて操縦かんを握ったということ、さらに素朴な東北の人々とのふれあいをもったということも原町への思い出を強めるうおすがとなっていることも事実です。
このたびの調査はどんなところにあるか存じませんが、私にとっても思いで多い原町の様子を知りたくてまた、アルバムに載っている同期生の消息がわかりましたら、ぜひお知らせいただきたいと思っています。それ故に、ご調査に対しては。できる限りお手伝いを申し上げる所存でおりますので、この後も、何なりと申付けのほどを……。
あの無線塔は、その後とりこわしたということを聞いていますが、ほんとうでしょうか。
私どもの唯一の思いの場であった酒保に出張していた源兵エ屋さんはその後どうなったでしょうか、(おじさんは、当時五十才ぐらいだったと思います)
新田川へは現在もサケがのぼってきているでしょうか。(おそらく当時にも増して盛況と存じます)
そしてあの原町飛行場はどうなったでしょうか。等々、知りたいことがたくさんあり、一度出かけてみたいと思っています。
それから、最期に思い出しましたが、私の搭乗機の専属整備員だった渡部さんは、どうされたかということも、知り隊たいことの一つです。
実は、私は現在ある団体の役員をしておりますが、明年に退職予定ですので、自由になりましたから、早速にお訪ねしたいと考えています。
右、とりあえずご回答まで。
一月二十三日
中曽根義登
二上英朗 様」
この中曽根さんの手紙にこめられた心情は青春の一時期を原町陸軍飛行場で過ごしたことのある関係者にとって共通のものだろう。
奈良県の沖田与志雄さんは、いきなり電話で
「俺だよ、わかるか。沖田だよ。生きとったか」
と言って来た。三重県出身の三上健二郎という人物だと思ったらしい。神奈川県の関作三さんからも返事が届いた。みな生き残って、同期の人々の消息を欲していたのだ。
また中村久男さんは戦死したと、兄弟の方から連絡を頂いた。
八十四期の三十二人のうち、一体どれだけの戦死者が出たのだろうか。新しい取材が始まり出した。これらは「原町陸軍飛行場物語」として、別な機会にまとめなければなるまい。

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