原町陸軍飛行場アルバム

九月二十三日から四日間「原町陸軍飛行場と原町紡織工場小史展」を開いた。
なぜ陸軍飛行場と原紡工場なのか、と質問された。
訳がある。
折しも九月二十三日は、原町市陣ケ崎公園墓地内で原町飛行場関係戦没者慰霊祭が行われる予定になっていた。
期日を合わせてその日に展示会を開いたのである。

飛行場関係の戦没者に関する以外に、原町陸軍飛行場については、当時の関係者の手で詳細な資料が集められており、名簿や手記、遺書も本になって紹介されている。
昭和四十九年刊「あかねぐも」がそれだ。
その多くの写真を慰霊顕彰会事務局の八牧通泰氏より借り受け、また青田信一氏より当時の飛行場の沿革と見取り図を教えて頂き展示した。
原町空襲について取材中に資料として二冊のアルバムを見つけた。どちらも昭和十五年に発行されたもので「紀元二千六百年」という文字が入っている。
「原町空襲展」では、集めた写真が会場に展示しきれなかったため、一部を次回にまわうことにした。その一部とは実を言えば二冊のアルバムのことである。
このアルバムは開場当時の熊谷飛行学校原町分教場と、原町紡織(株)互親会とが、それぞれ発行したもので、撮影は神田光陽氏が担当した。
写真師神田光陽氏自身はこのアルバムの事をたずねると。
「あれはうちにも一冊あったんですが、台風の時の水害で他の写真と一緒にみな水浸しになってダメになっつぃまった」
という。しかし、撮影した当時の記憶を詳しく語って下さった。
重い木箱の写真機を飛行機に積んで空中撮影したこと。
分校長に気に入られて岩手県の(※後藤野)飛行場の撮影にまで連れて行かれたこと。
「ほう、そうですか。兼次さんの甥子さんですか。兼次さんと私とは同い年でね。一緒に謡を習ってたんですよ若いころ。そうですか、そうですか」
しぜん空襲の話になった。空襲の時には地区の警防団長をしていた。
駅の爆撃は凄まじかった。私は若い者二人連れて行ったんですが、駅前の丸屋旅館の所で身動きできなくなってしまってね。木切れでも何でも飛んでくるんだから。爆弾が落ちるとその爆風がすごい。若い者はもう二度と神田さんにはついて行かない、なんて言ってましよ、あっはっは。
駅のレールは飴のように曲がってね。跨線橋の上にまでひっかかってた」
光陽氏の長男偵氏は、神田写真館二代目館主となったが、すでに職業写真家として各種のコンテストで入賞するなどの腕の持主で期待される人物であったが数年前に急逝した。
真新しい仏壇と燈明のある居間で、私は写真師親子の運命のようなものに思いをめぐらせながら、光陽氏の話に聞き入っていた。
夫人もまた婦人会の活動ではリーダー格で、戦時中は光陽氏と一緒に撮影の仕事に携わっていた。
「飛行場の中へは、一般の人はなかなか入れませんでしたけれど、私はいつも主人と一緒でしたから、いろんな所を見学させてもらいましたよ。
飛行学生が記念写真を撮る場合は、いつも行きました。
格納庫から飛行機を出した時など、何枚も場所をかえては撮ってくれって。きっとご両親のもとへ送るのでしょうねえ。童顔の少年ばかりで、ホームシックにかかってる子もいました。
私ね。お風呂に入ってる場所まで撮ったことがあるんですよ。みんあはしゃいで、そりゃ楽しそうでした。普通の学校と変わりありません。ただ…・」

神田写真館には将校や下士官が下宿していたこともあった。すぐ近くの柳屋旅館にも多くの飛行隊将兵が宿泊していた。特攻隊に編成された人物の写真を撮るのがつらかった。

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