「野馬追行進曲」つづき

 しかし、その前後の紺野の行動をみてみると、郷土愛の発露に根差した出版とはとうてい思えない。植松将軍というのは、鹿島町出身の海軍少将で、上海陸戦隊長として上海作戦では日本の中国侵略戦争の尖兵として活躍した人物。軍国主義日本のはなやかなりし時代のピークだから、野馬追千年祭の昭和十二年・紀元二千六百年の昭和十五年・太平洋開戦の昭和十六年、ナチスドイツとの軍事同盟締結を祝ってヒトラー総統の盟友オットー駐日大使の野馬追祭礼への表敬参加を総大将として植松は迎え、すでに軍人政治家として地元選挙区の代議士になっていた。軍拡アピールに血眼になっていた国や民にとって、植松は国民的英雄として郷里相馬の伝説になっていた。これに迎合したに過ぎない。
 時代が変わると、すぐさま紺野は自作の歌詞に軍楽隊楽長補佐の曲を排して、地元生家に疎開してきた文化人の天野に別な曲を求め、ふたたび野馬追PRに名を借りて自己宣伝につとめている。ただの目立ちがり屋である。
 紺野についてしらべてみた。
 「相馬野馬追」と言う詩文を行進曲に仕立てたものを、当時浪江女学校の生徒であった宝玉ミツルさん(原町在住)は、「学校で歌わされた記憶がある」という。紺野清輔は浪江の三奇人のうつの一人であるという話も出てきた。
 浪江町大堀の住民松本哲夫は、幼時に元浪江町公民館長の斎藤総一が、松本の父親のところへよく遊びに来ては話す中に、くだんの紺野清輔の名に言及しているのを覚えている。
 詩文の制作は昭和四、五年のことではなかったか、と松本は言う。
 当時としても奇矯の人物であったらしい。昭和初期に浪江町でカフェーを経営してみたり、南北朝時代の南朝系の研究をしてみたり、そのため警察に睨まれて資料を没収されたりしていた。当時は天皇制が万能の権力ピラミッドをなしていたため、現天皇の祖先が北朝方である状況で、南朝方の皇位の正統な継承者を主張する熊沢天皇を自称する人物があったので、紺野が地元の痕跡を熊沢氏に連絡して繋いだのである。この辺の研究であったろう。
 また、一説には紺野がフランスの外人部隊に入隊したとも聞いたことがあるが、こういう話はたいてい周囲を煙に巻いて自分自身が語っていた話だろう。
 帰国後は左官をやり、小高桃内の旧家天野家の土蔵の壁塗りをしたというのだ。作曲家天野秀延との出会いは、この時のことではなかったかと松本は言う。どちら側から合作を申し出たかについては、当然ながら紺野の方からだろう。
 浪江町の駅前に紺野の子孫が今もいるそうだが、もとより清輔については定かではないという。
 紺野は昭和十二年の相馬野馬追千年祭に、再び同じ詩文に別な曲をつけて出版しているが、これには
 「皇太子殿下賜台覧
明治四十一年十月九日臨時野馬追祭」
 と皇室の権威を賦与しながら、浪江町の写真師馬場春水が撮影した野馬追写真が印刷してある。この時の皇太子というのは、のちの大正天皇のことであり、馬場が撮影したわけではなく、明治41年に撮影したのは福島県庁から直に要請された福島市の写真師だった。
 かつて南朝研究家だった清輔が、ここではコロリと北朝方天皇の権威を借りて自作を披露しているあたり、節操のある思想の持ち主ではあるまい。
 軍国主義と、相馬野馬追千年祭という千載一遇のチャンスとばかり、九さくを引っぱりだしているのは明らかに便乗迎合組である。
 たとえば楽譜にわざわざ次のような檄をしたためている。
 「平将門大志あり天の横雲を掃わんと軍の備を成せし所小人の秀郷(俵藤太のこと)、貞盛等怖をなし都に讒言なせし為め戦となりぬ英雄の大精神を知らずして楠公や大西郷を殺せし如く」云々。
 浪花節の世界である。
 ただし「祖先より伝わりし鎧兜も商人の手に渡り腹掻切りて君国の為に尽くせし尊き遺物も外国の博物館に行きて拝する様に成らざる内一時も早く国宝となし後世に伝ふべく努力するは我等国民の急務なり」という箇所に、まっとうな意見も瞥見される。
 「愚生世界大戦当時(これは欧州の第一次世界大戦のこと)欧米に永く居りし」など書いているから、外人部隊の話の真偽のほどはともかく、のんびりした田舎にしては珍しい奇人であったことは確かなようである。

平成5年7月号「台地」

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