湯たんぽの暖房と赤ケット

主要な駅では駅員が大きなやかんにお湯を入れて一等、二等に持ってゆく。冬は大きな駅の駅員は大変である。一等、二等の旅客には湯たんぽをサービスしていたから、その湯をつめかえなければならない。三等の旅客には膝掛けを貸した。しかしそれで充分でないから、自分で毛布を持って乗った。貸毛布は赤い毛布であったかた地方から東京に出かける「お上りさん」を「赤ケット」などといった。汽車が発車する時は駅員が全部の扉を閉めて鍵をかけた。これは東北地方の支線などには昭和に入ってからもあった。客車の上等中等下等の呼び名が一等、二等、三等となったのは明治30年12月からである。
明治35年の1月22日民報に、驚くべき記事が載っている。
「汽車中にて焚火」というものだ。浪江発長塚着の列車の中で、焚火をしていた男があったという。よほど寒かったねであろうが、焚火とはまた。
明治36年の民報には、湯たんぽについての言及がある。
上野青森間の急行列車のみに暖房がついていたものが、一般の汽車にも取付ける、というものである。それまでは暖房といえば湯たんぽを貸していた。
「〇日鉄雑事 △今まで蒸気暖房器の仕付けありしは上野青森間の急行列車のみに限りありし所昨五日より全線各列車に仕付くる由にて暖房器の無き列車は湯たんぽを供へ置くといふ△貨物は全線を通して益々不振となり来りたるが年末には多少活気を呈すべき望みありといふ」

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