記念すべき最初のストライキ 明治31年

原ノ町機関庫の設置は明治31年。この年は、待遇改善を求めて日本の鉄道労働者にとって記念すべき最初のストライキが行われた年でもある。
国労のパンフレットから、戦前の労働組合の歴史に触れた部分を引用する。
「鉄道労働者の組織活動は国有化以前、一八九八年二月二十四~二十七日、日本鉄道の機関方が待遇改善を要求してストライキを決行した後、同年四月五日に矯正会という労働組合を結成したのに始まる。しかし矯正会は弾圧のため一九〇一年十二月に解散。これがまた弾圧のために消滅」(「国鉄労働組合の30年」より)
労働者の罷業は、人間の権利と尊厳の自覚にもとづくものであったが、それに対してかえってきたものは、激しい弾圧だった。しかし、機関庫の設置はどうじ同時にそこで働く者の歴史であることを、われらの父祖であり先輩である初期の鉄道員の意識と行動を記録することでここにとどめたい。その空気はまさに原ノ町機関庫の開業前夜なのだ。
当時の新聞から(明治31年2月26日民報)彼等の要求を紹介する。
「同盟員の口実に依れば 第一同局の機関方に対する措置其当を得ざる事
第二 二十七八年の戦役に際し日夜精勤したるにも関わらず其褒賞に漏れたるは全く当局者の眼中他の書記若しくは助役等ありて機関方を度外に付したるに由るとの事
第三 再三再四陳情したるにも関わらず一切其願意を達せしめざるのみならず、却って其運動者又は首謀者と見做す者を停職或は解雇したる事
第四 当駅汽車課の受付たる黒磯白石間は線路に勾配の急なるもの多く随って機関車の煙筒より火の粉を吹き出す事多かりて為め線路付近の家屋を焼毀せし事あるに対し 其の予防法として汽車課長岡部氏の発明に成れる一種の金網を使用することとなしたる際 将来機関中より出火せしめたる場合起る事あるも会社に於ては毫も其責に任ぜずと布達して罪を機関方に嫁せんとしたる事 及び物価騰貴の今日到底現時の給料にては其生活費に充つるに足らざる事等にして即要求する処は
第一機関手を駅長と同時の待遇を得んと欲する事
第二火夫と言へる名称を機関生とし 機関方心得なる名称を機関手心得と改正すること
第三機関方全部の給料を引き上る事なり」

同年3月6日民報によれば「日本鉄道会社同盟罷業機関方の委員より会社に対する要求は 会社に於て大体之を容れて再昨夜其の指令を委員に与へしかば罷業もここに一段落を次げ委員等は昨夕までに悉皆帰郷せり
委員より申出でし会社の容れたる要求は次の如し
(一)機関方の解職せあられたるもの十名の中、二名を処分し八名を復職せしむる事(最初は十名とも悉皆復職せしむべく要求せるも委員に於て二名丈譲歩せるなり」
(二)待遇変更の件 (会社の利益賞与を配当する 総て従来より大に待遇を善くす)
(三)名称変更の事 (機関方を機関手として火夫を乗務機関生、掃除夫を機関生とす)
(四)給料引上の事
去れば此の同盟罷業者は全く勝利を得たるものなり」と、労働者側の全面勝利を報じている。
原ノ町機関庫の開業の直前の、これが当時の鉄道員をめぐる状況であった。

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