32 落馬
旗の由来には色々あるが、有名なエピソードに絡まる旗も多い。
相馬市の松本敬信の著「相馬の歴史」二一五頁には次のような記述が見える。
「松本孫右衛門 孫右衛門とよ綱は相馬野馬追のとき藩公の落馬を介抱したことで有名である(安政二年)。その後、良い馬を献上したり、天保大凶作のとき米百俵を献上し、天保七年には御頼百姓を取り立て、さらに百三十両、米三十五俵を上納、弘化二年には巡検使御休処を修復、相馬の御仕法に金十両を上納するなど毎年のように藩のために尽力した。嗣子容重は安政のころ大砲鋳造のための大金を上納した。代々孫右衛門を襲名。子孫は行方郡南新田村(原町市)に住み、相馬野馬追の時の御宿をつとめ、藩公の乗馬や騎馬武者たちの世話などに力を尽くした。野馬追功労者である」
ところで安政二年の野馬追で、藩公が落馬したのを介抱したのは有名だというが、それは野馬追に関係する人々にとっての話で、この余りに有名なエピソードは前述の本には省略してある。読者はすでに知っているとの前提である。今日では郷土史への関心も薄れ、野馬追の歴史についても無関心な傾向にあるので、一般の若い世代にかぎらず野馬追じたいに最初から無縁なので、各種のエピソードは今や書き換えなければならぬ。「かつて昔は有名であった」エピソードの数々、と。
孫右衛門の名は近代においては明治期の原町選出の代議士の名前のほうが有名だろう。代議士時代に原ノ町駅から発車しようとする急行列車を、自分が乗るまで待たせておいた、という伝説が残っている。先ごろ亡くなられた松本欽一氏が生前語ったところによるとそれは事実ではないとのことだが。
安政二年の野馬追に遡る。
現在の原町市本町の七十七銀行のあたり、そこに原町駅亭があった。今しも、藩公が鐙に足を掛けて乗馬なさろうとしたが、これを嫌がってヒヒーンと嘶くや、後ろ足で立ち上がって完全武装の藩公を背中から振り落としてしまった。
どさりと落ちた藩公。あわてふためく従者。かまわずかしこに駆け去ってゆく愛馬。
この愛馬、よほど藩公とウマが合わなかったのであろう。
この時、藩公にかけ寄って介抱したなかに、件の松本孫右衛門があった。
「おそれながら、今は御出陣の時。殿にはそれがしの馬にお乗りあそばされますように」
と申し上げて自分の馬を引っ張ってこさせた。そうして地べたに手をついて四つん這いになって、みずから踏み台になって叫んだ。
「さあ殿。御乗りくだされ」
この一件で大層に気を良くされた藩公は、忠臣に対する感謝の証として白無地の扇子を賜った。後日の証明として臣下に白扇を下さるというのは、この当時の高貴な立場にある人の一般的な行為であった。このことによって、孫右衛門の旗印は白扇となったとか。気配りの勝利である。

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