はじめに 序章

戦争の余燼くすぶる日本全土を精力的に天皇は巡幸していた。
昭和二十二年八月五日午後三時三十五分、天皇が初めて原ノ町駅頭に降り立った。
国土復興につくす国民の前に、身近に接して激励する目的のこの巡幸で、天皇は各地でもみくちゃにされたり御料車の中で泊ったり、「人間」としての苦渋も味わった。
故郷の人々にとって、しかし天皇は教えられたとおりの「生き神」であった。
神格化されていた日本の元首を、実際に目の当たりにした人々は、感激と意外さとの入り混じる感情で迎えた。
駅前に、あふれるほどの人々がかけつけ、前の人の頭越し肩越しに、ようやく垣間見ることができた。そこに、柔和な微笑をたたえた天皇がいた。
当時の天皇のスケジュールによれば、原町巡幸の直前には、湯本で停車し、常磐炭鉱を見学(千五百尺すなわち四五〇メートル地下の灼熱と斗い、と当時の新聞のいわく)したあと、平市内の戦災の跡をご覧になられたはずである。
原ノ町駅には、七分間停車であった。
渡辺敏町長が、奉迎会場につめかけた町民一同を代表して、万歳三唱の音頭をとった。
陛下は、用意されたお言葉を親しく原町町民にかけられた。
「おわびかたがた」の訪問に、町民は喜びを禁じ得なかった。
随員の説明を聞くなり、ややハイトーンの澄んだ少年のような声で陛下は、
「あっ、そう」
と答えて、再び車中の人となった。
物がなかった。食糧もなかった。
生きる闘いが始まった。
闇市に買い出しに、庶民のエネルギーはしかし大らかに発揮された。
再び天皇が原ノ町駅を訪れたのは、昭和三十年のことであった。


わが町の歴史をしるす時に、現代編の第一頁には、どんな事柄が書き記されるべきであろうか。
多くの公史は、戦災からの復興をその序章とする例を示している。
現代日本人にとってのみならず、日本の歴史の中でも最大の事件は、まず太平洋戦争の敗北とその戦災だろう。
よもや初めての天皇巡幸を以て現代史のページを開始するようなことはあるまい。
だいいち原町のような東北の片田舎に、日本国天皇がお寄りになられたのには、それなりの事情があった訳で、要するに先に掲げた大戦の敗北と災禍というところにあるのだから、無邪気な感慨で戦後のわが町の発展の象徴的契機などと軽々しく書くべきではないことは自明であろう。
一千四十四名の戦病死者と、十四名の空襲死者の声明を奪った戦争を忘却したまま今日の平和と繁栄を語ることに、何のためらいもない無邪気さとは、私には歴史意識の欠如としか思えない。
当の巡幸の際に、ずっと随伴していた侍従長大金益次郎が後に書きしるした「巡幸余芳」という本によれば、わざわざ「恵まれなかった常磐沿線」という一節を設けて、「この常磐線沿線地方は、今回の巡幸には、誠に恵まれない地位に置かれたことを気の毒に思ふ」「この県の海岸地方が、謂はば素通りにをはったことについては、宮内府もその他の関係当局もその他の関係当事者も、反省の余地がありはしないか」「しかるに、この三時間以上の間は、原ノ町駅に御停車と、二、三の徐行駅を除いては、完全にノンストップで突破してしまった」と述べているほどだ。
巡幸の当事者が恐縮しながら、わざわざ自ら当地方軽視と公開している一方で、原ノ町駅だけにお召し列車が停車したと手放しで喜ぶ態度は、まことに滑稽としか言いようがなく「その後の原町の発展をいよいよ予感させ」たとなると、笑を越えて、私に深い溜息をつかせる。


十一年前の二月、高校の卒業の間際に、ずいぶん夜遅くまで本を読んでいた。
受験勉強ではなかった。あの頃は、百五十円の岩波新書をむさぼるように毎晩読み耽っていたのだ、(岩波文庫は市内に置いてなかった。今でもおいてないが)
その中の一冊に、新刊の「東京大空襲」があった。「ヒロシマ・ノート」があった。「戦没農民兵の手紙」「あの人は帰ってこなかった」「良心的兵役拒否の思想」等々。
たて続けにそんな本を読んでいた。
原町の空襲については、ほとんど知らなかった。実を言えば、この夏まで知らなかった。
断片的に親から聞き、半ば伝説化している「町の歴史」は、しかし全体の姿を見せてくれなかった。公的な記録は皆無で、自分で取材うるほかなかった。
戦争体験者は、その体験をの躯体と共に滅ぼしてしまおうというのだろうか。
否。戦災の傷口は、私の住む小さな町に無数にあった。表現方法と手段を持たないが、自らの体験を聞いてくれる「耳」を、彼らは待っていたのだ。
戦後三十七年もあった、という。しかし、私の「耳」には、今切ったばかりの鮮血のような証言が次々に注がれた。
あたかも国連軍縮総会に向けて、世界的な反核運動が盛り上がった年となった。
反核も、原爆問題も私にはあまりに大きすぎる。だが、たえず共鳴する胸の中の鈴がある。3・21広島行動や、5・23東京行動の大きなうねりが、東北の片田舎の小さな鈴をかすかに鳴らしたようだ。
あれらのうねりへに、かすかな反応が、この稿となった。


この十年、日本各地で戦災庶民史をきずく営みが繰り広げられてきた。一九七一年は、日本の空襲を記録する運動の最初であった。その年、高校を卒業して上京し、しばらく東京の下町に仮寓した。
原町空襲のことは心にかかりながら過ぎ、同じ下町を散策しながら、むしろ取材したのは関東大震災についてであった。東京大空襲については、東京の人々が立派な仕事をなしとげられた。私は、ささやかなわが町の歴史の中の「無線塔」にかかわる取材を続けていた。関東大震災のことも、その一環としてだった。
はからずも、くだんの無線塔はついに地上から姿を消し、数冊の本を書き遺すことで私の仕事も終わった。
今年の夏は、何をするか。ためらわず十年来の懸案の「原町空襲」にとりかかった。
戦争体験者が、我々に対して「昭和二十年夏」の原体験をさし示すたびに、その夏をこそ自分のものとして獲得しようと考えていた。そして今夏こそ、その夏と刺し違えようと思った。
私が巡った「昭和二十年夏」は、鮮烈であった。
しかし、私自身の「昭和五十七年夏」も、それに対峙しうる「夏」にしたいと思う。
与えられた「戦争体験」や、与えられた「平和」ではなく、みずから求める「平和」であるために。
昭和二十年二月十六日の原町空襲で、四人の死者が出た。
大原ヨシ子さん(一九歳)
斉藤和夫さん(一八歳)
鈴木小松さん(三九歳)
星スズイさん(二二歳)
原町紡織工場に動員された人たちであった。早朝、突然の米軍機の銃撃によって斃れたのである。
同八月九日、再度の空襲で三人が死んだ。
木幡貢さん(二六歳)
木幡孝夫さん(二歳)
高橋イクさん(三九歳)
それぞれ自宅で空襲によって射殺ないし爆殺されたのだ。
同八月十日。原ノ町機関区構内の防空壕で六人の鉄道員が殉職した。
小林安造さん(
酒本幸蔵さん(
志賀照雄さん(
二上兼次
高橋直さん(
新妻嘉博さん(一六歳)
これらの他に、駅構内でも一人の老女が死んでいるという。(詳細不明)
十四柱の、空襲犠牲者はもとより、原町市内から召集されて戦没した兵士は、一千四十四柱にのぼった。
物いわぬ彼らこそ、最も戦後を批判しうる立場にあるだろう。
無念のうちに命を落とした人々の霊のために、拙い本書を捧げる。それは、真の意味において彼らからこの町を引き継ぐためである。この町に生きている人間としての、執念のすべてをこめて。


八月七日。センバツ高校野球の開幕前日。カツミヤ原町店で「原町空襲の記録・ふるさとの戦争と平和展」が始まった。私はテレビの放送を横目で追いながら会場へ向かった。開会式の入場行進で「熊谷」や「明野」「鉾田」の文字の入ったユニホームをみとめ、ああ、陸軍の飛行学校のあった所だな、と思う。原町は、かの地の飛行学校の分教場であったのだ。若々しい高校球児たちが背負っているどの郷土にも、遠くたどれば戦火の炎がちらついているだろう。
平和な時代。
すでに戦災から遠い今日。しかしなお原爆の後遺症に悩まされている人々の存在を、同じテレビの画面が放送している。
教科書問題で、中国と韓国が日本政府と文部省に抗議している。
ベイルートではPLOを追い込むイスラエルが再び砲撃を開始した。
振り上げた拳を引っ込められずに振り下ろした旧大国ジョンブル。高価についたアルゼンチンの火遊び。アフガニスタンに居座り続けるソ連。「一九八四年」のようなことをやっている日本。
八月八日。長崎原爆デーの前日、アメリカは敢えて地下核実験を行った。
雑然たる現代の世界史の中で、地上には戦争と平和が境界もなく混在している。
気が付くと、今日亜二女の誕生日だった。
満一歳になった。
未来はつねに、子供たちのものである。
戦争の体験も腹を減らした体験もない私はせめて戦争の悲惨さを聞きかじり、かじったものを次代に中継しておこうと思う。
次代が、我々よりもましな世の中を作ってくれるために、その夜はささやかな誕生祝いをした。
そしてその日は、この児と共に歩みはじmた秘話の満一歳でもあるのだ。
平和なら、」すでにあるではないかという声が聞こえてきそうだ。だが、与えられたものは、またすぐに取り上げられてしまう。
この平和をこそいつくしみ、育てるのが私の世代の義務と思う。
昭和五十七年八月八日  著者しるす

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