原町の興行史

原町座の名を拾う

明治25年8月1日に福島民報が創刊された。8月16日付けの第16号に「行方郡原町通信(八月十四日発)」が載っており、そこに芝居座が間もなく建設されることが記されている。これが、原町座のことであろう。
〔芝居座 当町有志諸氏の計画になれる芝居座ハ九月上旬落成の見込を以て着々工事を進め居れり其資金ハ株主の負担にして落成式にハ頗る盛大なる式典を挙げんと意気込居れり〕
明治26年8月30日の福島民報に「原町に於ける相馬事件演説会」と題して、この当時全国を賑わしていた相馬事件をめぐる政談演説会が原町座で行われたとある。これが活字で確認できる最古の原町座という名の記述である。
明治29年2月27日民報に〔○原町の旧正月 行方郡の同村下町若連中ハ旧暦正月に入りて大に豊年を祈らんが為め田植踊を催す事となり過る頃より毎夜原町座に於て下稽古をなし〕という記事がある。明治30年には、幸田露伴の「うつしゑ日記」に、原町に到着した晩に、同伴者の乙羽という雑誌「太陽」の編集者が、原町で行われている芝居を見にいった、との記述がある。これも原町座のことだと思われる。
明治33年7月4日民報の野馬追の記事に〔○原ノ町の賑ひ野馬追見物の為め各地よりの人出非常に多く汽車の発車毎に幾千の群集入り込み一方ならざる雑踏を極めたり△停車場通りより原の入口迄は芝居見物小屋等隈なく両側に建てられ〕とある。
続いて7月26日民報の「相馬郡原町雑信」という記事に〔▲芝居 降雨の為め休業中なりし芝居興行は二三日来晴天とともに幕を開けしが中々見物人多く毎夜賑ひ居れり(廿四日)〕とある。降雨で休業というのだから、野外テントでの掛け小屋の芝居興行だろう。

明治33年11月15日 相馬大射的会 原町射的会場云々

明治34年9月3日 女義太夫 原町座

明治34年9月3日の民報に「原町座で女義太夫」が行われたとある。
〔女義太夫相馬郡原の町なる原町座に於て興業中なる竹本一九一座の女義太夫は初日よりの大入にて毎日木戸締切の盛況なりしにより更に二十日盆迄延べ興業の由なるが何れも其道に堪能にして聴衆を喜ばせりと〕
また明治38年7月26日民報には〔○機業工男女奨励会去る廿三日午後一時相馬郡原町座に於て原町外四ケ村連合機業工男女奨励会開会〕とある。
明治40年7月、民報の久保蘇堂という記者が原町を訪問し「非、避暑旅行」という随筆に次のような一節を描いている
〔▽十四日は午後より小高に入るべき予定なりき然れども、佐藤徳助(町長)佐藤政蔵(青年会長)氏等の切に勧むに任せ其夜原町座に青年音楽会臨時演奏会を聰く〕と。

さらに明治43年8月22日民報。
〔○原町青年音楽会/既報の如く相馬郡原町青年音楽会は去る十八日午後六時より原町座に於いて開会したるが場内場外は紅提灯を以て装飾し聴衆無慮五百名会長佐藤政蔵氏喝采場裡に開会の辞を述べ終れば江川夫人のオルガンに連れて場に登れるは日曜学校の少年隊『これは私しの』のと無邪気なる遊戯続いて花の如き少女隊の合唱あり江川夫人の独唱、渡辺夫人の門生、水越姉妹、桜井、松清、藤崎、志賀、小野、小田諸嬢の琴に太田夫人の三弦合奏、酒巻、小野、中江、佐藤四氏の謡曲(夜討曾我)斎藤太田両氏の尺八合奏(追分、流山)等何れも其堂に入れるものにして聴者に非常なる感動を与へ余興には岡和田氏の五目講談衆の臍を解き太田遠藤両氏の浪花節、竹野、丸川両太夫の義太夫等聴衆に無限の満足を与へ午後十一時三十分閉会したるが同会の役員佐藤政蔵、門馬、岡和田、松本、佐藤(徳)、青田、村井の諸氏終始斡旋尽力したり〕
明治の御代に、原町座の名が新聞に出てくるのは、こんなものだ。

大正4年3月22日の福島日日新聞。
「押川氏大いに演説す 原町にて19日原町劇場で 小高座で」
という記事がある。劇場は政治演説に音楽会に、と活用されていた。
大正4年
3.19–20 押川候補の政見発表演説
鹿島の政見発表 高松候補
3.21.中村町に於る押川氏演説の大反響
3.22.押川氏大いに演説す 原町にて19日原町劇場で 小高座で

大正6年12月9日民報。原町座空前の賑わい
原町座での芝居興行について仄聞できる記事もある。
大正7年7月2日民友「相馬原町芸妓のお芝居」という記事。
〔相馬郡原町芸妓連は予て演劇実演の稽古中なりしが愈今廿一日より同町原町座に於て同町約三十名の芸者出揃ひ芝居を為すべく其筋に出願許可されたるが但し観客を楽屋等に引摺込むに於ては芸妓取締規則違反で厳重処罰を為す由〕
石井製板所も興業の広場

大正7年9月20日
○原町の大相撲
◇京坂の合併相撲が
◇廿五六両日立つ
石井製板所側の広場にて
小屋掛の準備中なり

9月24日 中村の相撲

大正9年8月31日福島民報に、「芸妓久松」(本名カツ)という女性が、巡回中の活動写真座長と駆け落ちして、巡業先の原町にやって来たらしいことを報じている。一座は東京西沢興行部。娘の身を案じていた両親のもとに旅先からカツの手紙が届く。〔「男の甘言に迷ひ家出の罪を詫び今は男の為に虐待され日々涙に暮れつつ旅を〇ひ居る」旨申し来りしより父善一郎は大に驚き 西沢活動写真の跡を追ひ青森に至りしに同一行は本県原町に興行の事を聞き原町へ来りしに一行は白河へ立ちたる跡なりしかば・・〕
この活動写真一座の興行が、原町座という小屋で上映されたのか、テント小屋での上映であったのか不明だが、このような形での映画の巡回興行が原町でも行われていた様子が伺われる。
大正9年10月10日の福島民報に「劇場で金時計」という記事が載っている。
〔原町字町蹄鉄工場徒弟鈴木儀網(二七)は去月廿八日夜原町座に芝居見物中金側懐中時計(四十円)を拾得原分署に届出しに落主は同町土木請負業白尾卯三郎妻白尾ソメと判明したり〕
白尾卯三郎という名には見覚えがある。拙著「原町無線塔物語」を捲ってみたら、あった。磐城無線電信局原町送信所主塔つまりコンクリート製の二百メートル電信塔を逓信省から請け負った東洋コンプレッソル社の、そのまた下請け負いの代人の名である。
東洋一の無線電信柱を建てるというので、政府の仕事としてこれを請け負った当時の土木屋さんは景気がよかった。金側時計とはまた豪勢な。
現場をとり仕切る親方の奥さんは、芝居見物に出掛けて、そこで金時計を落としたという訳だ。芸物、巡業の活動写真一座、芝居小屋という状況に、原町無線塔の建設請負人の妻が登場し、何やら彷彿と景気のよい当時の原町の様子が想像されてくる。
大正10年は磐城無線電信局、原町無線塔の開局式の年であるが、この開局式の日に、無料映画会が開催予定されているという記事もみえる。
大正10年6月17日民報「原町無電局の祝賀は来月三日と確定 野馬追は勿論飛行機も来て来賓八百余名」という記事の中に〔又各所に無料野外活動写真を映写し観覧させる等同町空前の計画を樹ててゐる〕とある。当日の記事には、活動写真映写のことは記していないので、これは計画倒れだったのかも知れない。
大正11年8月24日、「活動写真会 広野村同窓会 22日六時三十分より 同村小学校で四百名以上盛況〕8月26日には「原町座に上映〕と報じているのは当時の宮城県小学校女教員の殉職美談。

小野訓導活動 原町座に上映

〔曾て(かつて)教育会(界)の美談として唄(謳)われた故小野訓導の実写活動写真は二十日より三日間原町座に開演された故女史はいかに愛童心に富んでゐたか人情溢るる如きその美徳ある殉職には観衆皆袖を連らねて涙を絞らざるはなかりき〕
(大正11年8月26日福島日日)

「原町演奏大会」
〔既報の如く原町新人会主催のポーランド孤児救済資金募集の為め来朝中の同国人ハリスキー氏を聘し十三日午後六時より原町座に音楽大演奏会を開催したるが非常な人気を以て迎ひられ定刻前早くも木戸〆切の盛況を呈したり副会長小林勉氏は開場と同時に開旨を述べ直に演奏が開始された同氏独特の自作に係る曲目は演奏毎に微妙な楽の音は次第次第に佳境に入り聴衆拍手鳴り止まず午後十時盛会裡に閉会した尚此日の入場者一千余名に達したり〕
(福島日日 大正11.1.16.)
翌12年の7月に、旭座が誕生する。また中村に新開座(または新町座)が誕生した。

旭座の興行

大正13年8月23日民報。「原町の東家楽興燕 浪界の第一人者東家楽興燕は廿一日、二の両日原町旭座に廿三日中村新開座に開演したるが何れも好景気である」
大正13年8月23日民報。相馬郷土芸術振興会が発会し、旭座で

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