中世相馬氏の祖墳をたずねる
 奥州相馬藩の歴史は、相馬重胤(弘安五年・1282年生まれと想定)の元享三年すなわち1323年 の相馬移住とともに始まるが、その始祖である千葉師胤が源実朝にしたがって奥州藤原氏との合戦に活躍した功績により恩賞として奥州行方郡(相馬郡原町地方)を与えられ地頭職となったのが前史。
 師胤は保延五年・1139年に父常胤の二男として生まれ、文治元年(1185年)には父とともに屋島、壇ノ浦合戦に参加するなど歴戦の勇士。元久二年(1205年)鎌倉に居舘し幕府に忠勤し六十七歳で死去。相馬天王として祀られ、相馬神社にも合祀された。
 奥州相馬の初代藩主重胤は最初、太田に移住。のち嘉暦元年1326年に小高堀内に移った。時は南北朝の世。建武二年1335年に所領を親胤に譲って一族を率いて鎌倉に出陣。延元元年1336年に重胤は北朝方に転身。鎌倉に出陣したが南朝方北畠顕家軍に鎌倉を責められ、法華堂にて自刃。
 この鎌倉法華堂は国史跡で、鎌倉市雪の下三。横須賀線鎌倉駅からバス「岐れ道」下車。大蔵幕府跡を右に見てなお北に少し行き源実朝墓(国史跡)に至る途中にある。
 また鎌倉最大の天台寺である杉本寺も訪問。建武四年には杉本城で陸奥守斯波家長の一族三百人が北畠顕家軍に敗れて討ち死にした。相馬重胤の霊位と多数の五輪塔がある。
 北畠顕家は一時、伊達郡霊山に居城を構え、相馬氏と争って小高城を陥落させたこともある好敵手。華やかで短い一生は、昨年の大河ドラマの記憶に新しい。
 「太平記」の戦乱の舞台となった鎌倉は、奥州相馬氏にとってゆかりの深い因縁の土地。相馬藩の始祖たちの終焉の地である。
267号・平成4年1992・12月18日あぶくま新報

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