明治27年に碩三にとって悲しいできごとがあった。
江戸時代安政の世の松本孫右衛門と、近代の碩三孫右衛門のあいだに、さらに偉大な孫右衛門がいた。
これはどんな孫右衛門かというと、戊辰戦争を生き抜いて、文明開化の世を迎え、西洋から伝わった牛の種痘を薄めて人に接種するという、画期的な天然痘という医療法を理解した。
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かつ、裕福な孫右衛門は、明治の初期に、かわいい碩三ら原町のかわいい子どもたちを恐ろしい天然痘から救うために、種痘の種子を買って来て、無量で医師に接種させたのである。
ただし種痘のタネが、いくつかのルートで日本に入ってきているので、どの経路から入手したものかについては、まだぼくの研究が至らない。
種痘が日本に入って来た経路と、いくつかの先人たちにツーとについては、もっと知りたい読者は、ぼくを大学生時代に魅了した吉村昭の「日本医家伝」を読めば、数日楽しみながら、わかりやすく、近世末の西洋医療技術の日本への伝達についてマスターできよう。
いわゆる、杉田玄白と前野良沢らの「フルへっへんどで」おなじみの、オランダわたりの「解体新書」を、もっと詳しく吉村昭の「冬の鷹」を詠めば、それはすぐにも、日本近代医療史をぼくみたいにたちまちのうちに解説する「ふり」さえできるようになる。
原町で、人々が子供たちが天然痘に罹患せぬように祈祷したという棟札が雷神社に掲げられたのは、安政三年1856年のことだが、江戸から明治かけて生きた孫右衛門は、すでの静養種痘術で、原町の子どもたちに無料で種痘を全員に施して、さっさと明治27年に世を去っているのだ。
この偉大な祖父を見送った孫右衛門碩三は、世の為人の為に尽くして人生を生きた姿を見て、「俺も」と思ったことであろう。
すでに明治25年には福島民報という子新聞が創刊されていた。27年には、原町の偉人、祖父孫右衛門の死が報ぜられ、そこには、町をあげて子供たちを種痘から救った奇特な行為を記者は美文調で褒めたたえた。
のちに、三代目社長として、碩三は福島民報を破産から、救ったのだから、福島市県都でなくとも偉大な恩人は原町にいくらでもいた。

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