明治神宮東北奉建の議 半谷清寿の大正元年の首都機能移転論

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政経東北 ふくしま意外史

ある年の中合デパートの古書市で「明治神宮東北に奉建の議」というパンフレットを発見し入手した。大きさはA5判。わずか二十三ページの冊子で、日付けは大正元年八月二十六日となっている。
著者は半谷清寿。かつて「将来の東北」という題で東北開発の理論を展開した人物である。半谷は大正初年にかけて浜通りから選出された代議士。出身地の小高町にいち早く機操業を興し、絹織物の輸出のために横浜に出張所を置いた。明治の末年頃が、外国の貿易会社との取引に成功し、小高町を川俣町と並ぶ羽二重の町にした。
一方、政界に進出して大いに論陣を張った。明治三十八年の東北大凶作に続く冷害不作の福島県の現況を伝え、福島民報の一面トップに「東北民の地租軽減」を訴える論説を連載している。
福島県相馬地方は、例の二宮尊徳を農聖とあがめる風が今日にも残っている。相馬中村藩の家来富田高慶が尊徳に師事し、その指導によって相馬の疲弊した農村を復興し、二宮は神ともあがめられた。
富田の著書「報徳記」は明治天皇に献ぜられ、天皇の机に少年二宮金次郎の小像が飾られるや全国の小学校に二宮金次郎の銅像が建てられるというブームさえ招来した。あの薪を背負って勤勉に儒書「大学」「中庸」を読む像こそは「報徳記」の口絵写真に使われたのがオリジナルであった。
二宮尊徳は実は相馬の地を一度も踏んでいない。実際の事業はすべて富田の権限と相馬中村藩の後押しによる。二宮尊徳の名は、冠すべきカリスマであった。いわばブランドである。
明治の世に移って、二宮仕法と呼ばれるこの事業は終焉した。
相馬地方の旧邑小高町に生まれた清寿は、商家の小僧から人生を出発した。「自分の住む町は何故貧しいのだろうか」という素朴な疑問を抱き続け、二宮や富田らの農業本位の開発では相馬の経済はいかんともしがたいと思うようになる。
小高が相馬全体の、相馬が福島県全体や東北全体を潤すことがなければ「自分の住む町もまた豊かにならないのだ」という信念にいたる。東北が開発されて豊かにならぬ限り、日本という国に寄与することもない。
のちに英国の貿易商ピアソン氏と親交を深めることになる清寿は、世界を相手に商売し、彼の信念の正しかったことを確認する。だが、彼の卓見が東北の旧弊な土地柄と一般民衆のレベルからかけ離れていたために(商業資本の壁を前に妨害に阻まれ)、現実には彼のビジョンを(思うようには)具体化できなかった。
しかし、彼は全身全霊を傾けて、生まれ故郷に種を播き、また新天地(夜の森)に開発の夢を描いた。
小高町に藺草栽培を勧め畳表の原料として、野馬追祭に外注駆除と観光資源とするため小高町火の祭りを創始させたのも、彼の建言によるもの。また原野であった夜ノ森地方を有志を募って開拓し、そこで志に殉じた。
彼のごとき人物にしてなしえたのが大正元年の「明治神宮東北に奉建の議」であったといえる。

内容は、明治天皇の遺霊をまつる神宮を東北に誘致せよ、というものだ。
ご承知の通り、明治神宮は東京都の中心にある。代々木おピンピック公園から明治神宮にかけては、東京都民にとっては貴重な緑の空間である。
東京都を帝都と呼び、戦後も政治行政司法の三権という集中のほかに、天皇の御所も近代発祥の神宮もたま「首都」であるとする条件に数え上げる例さえある。
明治神宮とは明治天皇の霊を祀る施設だが、墓所ではない。日本帝国の重みの幾分かを有する、日本臣民にとっての限りなく心ひかれる重心の存在場所だ
清寿のパンフレットは、実はその発行の時期が問題になるだろう。
明治天皇が薨去したのは明治四十五年七月三十日のこと。清寿の檄文は、八月ニ十六日。わずか一ヵ月しかたっていない。もちろん大葬の礼さえ済んでいない時期である。
「今日は御大葬も尚未だ行はせられざるの時に方(アタ)り早くも神宮奉建の事を議するの如きは我等東北人の最も憚り多しとする所なれども東京を始め其他の県に於ても議会に神宮奉建の請願を為したる所もあり」
死んで葬儀も住んでいないのに、その神宮を誘致するため綱引きをするなど東北人にとって、「皇室にも尊崇の念深い従順でつつしみ深い性格の」最も、はばかる行為であるのはわかっているが、東京やその他の件では議会で誘致議決をしたり、帝室に請願することころもある、と指摘したうえで、このような上許可で、東北だけが沈黙するべきか、提議するにも時機を失するおそれもあるので、東北の有志と先覚者に諮って天下の公論に訴える、と結んでいる。
今日の首都移転の議論ときわめて酷似した状況ではないか。

 

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