昭和二十年八月十日のことを記録しておく。つづき。
二上兼次伯父二上兼次
「今のうちに豆をとりに行ってこよう」
二上ミドリは、近くの畑に出かけるところだった。夫は、その朝、​休みであったが作業服に着替えて出勤していった。職場に着いたか​着かないか、という頃、空襲になった。
舅が(わたしの祖父のことだが)まず知らせに来た。

「機関区で、おやじがやられたぞ。ほれ、蒸気(機関車)が鳴いて​いる」
構内の蒸気機関車が機銃掃射されて、打ち抜かれた気缶が汽笛の​ように鳴りっぱなしになっていた。
事情を確かめようと、二軒隣の相原さんの家に聞きに行こうと出​たところへ、自転車に二人乗りして飛んできた機関区員があった。
「急いで渡辺病院に行きな」
「生きてるよ。意識ははっきりしている」
病院など初めてのぞいた。勝手がわからなかった。頭に包帯を巻い​ている人などが、さかんに出たり、入ったりしていた。怪我程度だ​と思っていた。だれがそうなのかと探すと、かたわらでうめき声が​する。それが夫だった。
機関区の同僚が、数人心配そうに見守っていた。
またサイレンが鳴った。
避難せよ、との叫び声が飛び交った。
サイレンの合間に、渡辺伸院長が来た。
「大丈夫だろう。ぜんぜん外傷がないから。」
外傷はなかった。しかし、顔が真っ青で、大きな玉のような脂汗​が、浮んでいる。
「水がのみたい。水を飲ませてくれ」
あとは苦しそうにうめくばかりである。
「水なんか飲ませたら、助かる命もなくなってしまいますよっ!」
看護婦に激しく制止された。
またサイレンがなる。
担架に石炭ガラが付着していた。防空壕ごと潰されたのだという​。掘り出しているうちに襟首が出た。襟をつかんで力いっぱい引き​上げられたのだという。また掘り出されていない人もある。
二上兼次は、同僚の手によって救出された。土中から掘り出され​たときに、うめき声がしたのだという。それから目をあけて、言っ​た。
「ああ。楽だなあ」
生き埋めの苦痛から開放された言葉を吐いて、いつもの癖で、頭​髪をかきあげ、
「帽子、帽子」
と言い、帽子を被りなおした、という。
「二上さんは助かった」という情報は早かった。病院に運び込ま​れるまで、意識ははっきりしていた。
何度も波状的な空襲が続いた。
やがて、苦しそうに言った。
「息が苦しい。起きたい。起してくれないか」
そばにいた機関区の堀川さんに手伝ってもらって、背中に布団を​あてがい、静かにゆっくりと上半身を起した。
このときであった。
二上兼次は、大きく見開いていた目を、ゆっくりと閉じた。
午前十一時頃であった。
体に傷ひとつなかったが、内臓はすでに破壊されていたのだ。
「家に連れて帰ります」と言うと、すぐに数人の機関区員が運ん​でくれた。
だが、まだ飛行機が上空を舞っている。
そのたびに、土手にかくれ、知人の防空壕に避難しながら、家​までたどりついた。
その夜は、両親と子供たちを植松の姑の妹の家に疎開させ、遺体​を守って家に残った。
戸を開け放っていた。近所の人たちは、次々と疎開して行った。
だれもいなくなった界隈は静かであった。
和田さんという機関区員や、硬骨で知られる高野栄三郎さんなど​しかいなかった。
それにしても、と私は思う。近所のお年寄りたちが亡くなって​しまって、昔の話を聴けなくなったことが無性に残念なのだ。
私が生まれ、育った、この狭い路地には両親や伯父おばや、近所​の人々に歴史があり、私自身に思い出がある。
私の興味は、容易にこの場所を去らないのだ。
おばの回想を聞きながら、私はなくなった近所の堀川さんや、高​野栄三郎さんといった人々のことを思う。
もっとたくさんのことを聴いておきたかった。聴いておくべきだ​った。
一万人であろうと、二万人であろうと、この町に生き、同時代の​空気を吸っていた年寄りたち全部から、本当に心から話を聞きたい​と思った。
わたしの炉辺は、彼らの魂の中にあるのだ。
昭和56年7月取材

「原町空襲の記録」という本が出来上がってからも、なんどもミド​リ伯母を訪ねて、この時の話を聴きだし、そのたびに、泣かせた。
「あれまあ、豆を取りに行ったなんてことまで、書いたのかい。も​っとちゃんとしたところを書いてもらうんだったな」などという。
スナップ写真か、ビデオを撮影したかのような印象だっただろう。​取材で聴き書きという手法による対象になることは、ふだん経験し​ない。
普段着でなく、「ちゃんと」した服装で、写真に写るような感覚を​言ったのだろうが、自由な雰囲気の中で、すなおに、自然に、記憶​のままに語った、加工しない画像と感情とが、そのまま文章に定着​したのだと思う。
これまで、原町に空襲があったことは知られていたが、公的な記​録は何もなかった。

原町市史という分厚い役所が発行した郷土史に、1ページに満た​ないほど書かれていたが、日付が間違っており、人数が間違ってお​り、とても歴史記述ともいえない代物であった。
また、多くの随筆などで「防空壕で一瞬のうちに6人が即死した​」などと、いい加減な記述で片付けているものがあって、それが間​違いを伝播させてきた。
従兄の二上郷嗣は、とうじ、8歳の少年だったが、臨終の父親の肉体に​触れている。
「たしかに父は生きていた。意識もあったよ。俺は、父の体を触ったのでよく知っ​ている。外傷はなかったんだが、表面の皮膚を通して、激しく内臓​が波打っているのを、いまでもこの指が覚えている」と言うのだ。
だれも遺族の話をきちんと聞く作業をせずに、町民の風聞をその​まま書き、そのまま語ってきた。
昨年の3・11津波で、南相馬市民は66年ぶりに、原町空襲の​ときのように、アメリカ軍の艦載機の空襲を避けて、山間に疎開し​た。ふたたび風聞で書き残したり、語ったりするのだろう。
新聞で読んだ記事を、あたかも自分の体験のように語るのは、目​に見えている。
昭和56年当時に、高齢になっていた人々は、むしろ、書物やテ​レビや映画の影響を受けていない。自分の体験を、まっさらなまま​に語ってくれた。
6人の機関区殉職者の遺族のうちで、妻本人が生き残っているの​は、いまや二上ミドリひとりになってしまった。
2月16日の東北最初の空襲犠牲者となった4人についても、す​べての遺族から具体的な最期をつまびらかに聞き、記録した。
数年前、数億円をかけて、原町市史という膨大な史書が刊行され​たが、いくら金をかけたとて、取材は、もうできない。すでに多く​の高齢者が死んでしまったのだ。
お盆で集まる機会もあるだろう。

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