39 撲天鵬の印象
 大曲駒村に同行している戸澤撲天鵬も昭和十二年九月号「俳星」に、次のような紀行を載せている。
 「祭祀はもとは五月十一日から三日間ときまってゐたが、其後七月十一日より三日間と変更された。その故は五月は田植時で農家が忙しい、昔専ら武家によって祭典の行なはれた時と違ひ、今は町方や村方の有志、若者が騎馬武者に扮装する関係上、農繁期では万事都合が悪い、又梅雨に降られると肝心の鎧の威糸が腐る、是れ又心配の種で、農家の挿 季を過した七月に変更されたものである。もちろん七月になると田植えが済み、養蚕も一応片付いて、一息といふところで農家や町方には好都合であるが、併し昔の五月雨頃、田植の男女が田の表に働いて居る時分の方が、この行事の情景として一層面白かったやうに想像される。」
 実際に、田植えをしている百姓が点描となる情景の中を、騎馬が疾走する絵巻が今日残されている。
 こういう風情は格別のものがある。士農工商の身分制度のしっかりとしていた時代には、逆に戦などにはあずかり知らぬという庶民のおおらかさの味わいもある。
 異質な世界の共存する取り合わせの面白さの妙であろう。
 ところで五月の野馬追というものを期せずして見る機会を我々は持った。
 ついこないだの五月四日に行われた原町青年会議所の主催による「親と子のふれあいイベント」においてである。
 これは五月五日の端午の節句にちなんだ行事であったが、折も折、同会議所の今年の年間テーマが「馬の文化を地域個性に」とのスローガンにようやくされるものである。
 若草の萌える季節に、甲冑武具が映えるものかどうか疑問視する向きもあったが、百聞は一見に如かず。
 原町では初めての出陣式が、特別のはからいで執り行われたのだ。
 これは大胆な実験であったが、意外なほどに美的な効果があった。
 半世紀前に一人のの俳人が創造した情景の一端を、はからずも味わえたのである。
 撲天鵬は続ける。
 「騎馬は太田、小高、中村の順序で繰出される。之は相馬家が最初太田に居住し後小高、中村と城を映したので其順序に従ふのである。今年は一千年記念祭といひ、相馬家から特に当主が臨席されるので、いつもは騎馬総勢六七百騎に過ぎぬものが其倍近く、一千一百十七騎と註された。以て其盛大さを知るべしである」
 全く、驚きというほかない。普段の年は騎馬六七百騎に過ぎぬ、というあたりに、今日の規模との比較が桁外れであることが判ろうものだ。
 「内訳は太田、小高から約五六百騎、中村から約六七百騎で、中村がダントツ優勢である。この割合は毎年ほぼ同様であるらしく、自ら町の実勢を物語るものであるかも知れない。甲冑の装ひに至っても中村勢は一番すぐていた」
 このあたりは、今日の情勢とは逆になるか。戦前は中村主導の野馬追であったことがわかる。撲天鵬さん、よくお書き残しておいてくれました。感謝申し上げる。

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