ニュージョージア・ルンガ沖海戦

つづき 捕虜生活から復員まで

収容所長は日本びいきだったんだが、使役で馬小屋を作ってくれという要求を出して日本兵側がジュネーブ協定をタテにとって断ったために、この話がこじれた。
海軍の佐藤兵曹長という人物が抗議のために反乱を計画した。ところが、この計画を密告した者がいる。
収容所は二重の金網に囲まれているうえに四隅の機関銃がにらんでいる。
海軍、陸軍、設営の三つに分けられていた、その海軍のグループの中に密告者がいたことが判明し、責任者が処罰されると聞き、ひどく怒って、責任を感じたらしい。
陸軍の曹長婦たちの前で割腹自殺してしまった。
「ニューカレドニアには一か月いたなあ。カリフォルニアには、昭和二十年七月初旬に着いた。
ほとんど綿摘みでしたね。道路清掃もあったが、丈夫な者はみな綿摘みをさせられた。だいたい機械でやるが、良い綿は手で摘む。
不満をもって、綿畑に火をつけて死んだ者もいたし、自殺した者もいた。
私は、BC患者といって、戦闘負傷者扱いでしたから(軽作業の)図書係りをやらされた。YMCAを通じて配給される日本軍の本の貸し出し係をしてました。
終戦は、そこで知った。だが、収容所の中では、日本の軍隊がそのまま秩序を保っており、日本が敗けたということは公然とは語れなかったという。
「陸軍では、日本が勝っているんだという説がもっぱらで、海軍では負けているというものもありました。若い海軍士官が、日本が敗けたというニュースを持ってきて、バッタ棒で真っ青になるまでぶたれたのを見ました。ひどいもんでした。
でも、戦況は毎日、日本語に通訳されて、聞かされていましたよ。それに(写真雑誌の)「ライフ」には、日本の敗けている様子が載ってましたし、日本兵が敵兵の首を斬ろうとしている残酷な場面もあった。
よくあんなに、いい待遇をしてくれたと思います。
二十年の十二月二十八日に、サンペドロ港を発ってハワイに着いたのは、二十一年の一月八日です。ハワイには十月二十四日までいました。
ハワイでも、収容所の中は同じでしたね。陸軍では勝っていることになっていた。
砂島という所にいました。外には出なかった。仕事は道路清掃の使役が多かった。
沖縄の人や海軍さんは、ハワイの親戚に会ってたようですが、陸軍の者は警戒されていた。
私は会わなかった。
ハワイに伯母がいることも喋らなかった。
演劇大会がさかんでね。
よく日系人も慰問に来ました。私らは、俳句大会なんかをやってました。
伯母というのは、父の姉にあたる人で、このあいだ日本に来たヒロタの母親になる。長男が、あのオサムで、次男のジュンは戦後、巨人軍にスカウトされて、しばらくキャッチャーをやっていた。
ハワイは温暖だったなあ。
夜の虹を、見たことがある。
夢のようだなあ。」
遥かなものをながめるまなざしで、喜吉伯父は語ってくれた。
二十一年十月二十四日、ハワイを発った。久里浜に着いたのが十一月一日。同日入院した。十一月二十七日退院。復員した。

病院から、妻を驚かせないように勤め先の工場へ手紙を出した。
「妻は、何事にもびっくりする性格でね。だいぶたってから、たぶん義父にはいないだろうと思ったが、家にいるとわかった。
工場の配慮で、すこしずつ知らせてもらった。最初は、どうも生きているらしい、というふうにね。」
病院に来た夫人は、目を丸くして驚いた。
十八年七月の、ルンガの戦闘で戦死したことになっていた夫であった。
しなびたジャガイモのような顔だった、と夫人は思ったという。
「船の中で、日本に帰るものは全員軍法会議にかけられると聞かされていたから、コロコロボーズに頭をそっていました。
それにね、面白いことがある。捕虜でいたあいだ、ずっと偽名でとおしていたんですよ。
村の庄屋をやっていた親父の手前もあるし、捕虜になりましたとも言えない。
恩給を申請する時に、武藤喜吉なんていう名前は名簿にない、と言われて、バレた。
私は「加藤一郎」だったんです。
どっかに本名が出るといいますけれども、私の場合は、武藤の藤の字が出ましたね。」
そばにいた夫人が、たずねる。
「え、なあに」
私の妻が答える。
「昔、オジサンがね、加藤一郎っていう名前を使っていたっていう話。戦争中の話をしているんですよ。」
夫人は、もう我々の話題には入れない。
脳軟化のために、記憶も現実もなくなってしまった。
喜吉伯父自身も、二年前に交通事故に遭って、頭がい骨を骨折した。生死をさまよって、奇跡的に助かった。
伯父は、クリスチャンである。
川俣教会の吉池牧師とともに、伯父の無事を祈った時のことを想い出した。
水が飲みたい、のどが渇いた、まだ駄目なのか、とうながされているベッドの伯父の唇を水でぬらしながら、祈った。
その時、ルンガの戦いで負傷したという場面を想い描きながら、病室のイスの座っていた。
伯父の命が助かった時、この日とのそばには神がついている、と思った。
普通の人ならば、二度死んでいるであろう局面を生き延びた。強運の人である。
その強運をこそ羨望する。1982

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