郡山は百年 いわきは千年のパラダイムの時空にある
過去という潜勢力
国内最大の面積を要するいわき市には、旧国鉄の駅が15あり、民鉄JRにそっくり引き継がれた。もっともそれらが開設された明治30~31年にかけては、鉄道はもともと民間の日本鉄道会社が国家建設の基幹を担っていた。
常磐線が日本の鉄道史において、明治20年には東北本線が郡山まで開通しているのに比較しても、10年の歳月が遅れているのは、当時も今も象徴的である。
国家全体にとっての優先順位。それは政治の世界では100年たっても新政策策定の上で、強烈な土台になる。
日本全国の鉄路のネットワークが敷かれたのが100年前なら、東北においてコンクリートの高速ネットワークがせいにされたのが90年後であり、いわき圏内で同じ問題が話題となるためには、それから正確に10年ずれこむことになる。
鉄道開通という明治の交通革命で10年の差がある。今日の昭和のモータリゼーションでも、かっきり10年の差が郡山といわきの間に存在する。
昭和30年代の新産業都市指定は、郡山・いわき圏ということになっていたが、この御馳走がじつはどちらが刺身で、どちらがツマだったのか容易に判明するだろう。
こうした近代の地域開発は、いわば100年単位の歴史的観点からの名が目といえよう。
判りやすく地域と歴史の全体像を把握するために、さらにカメラアングルの視点を引いて、1,000年単位のスケールを視野に収めてみると、面白いことに我々の住む21世紀の1画での人間の思いや動きが手2とるように分かることだ。
国鉄民営化が取り沙汰され、浮ついた情念ととも情報ともつかぬ動きとして、いわき市内の2つの駅名を改称しようという運動が昨年マスコミを賑わした。
あたかも住民全体の要求に反映されて出来きた提言であるかのごとき印象が新聞紙上に見えたのであるが。
かいつまんでいえばこうだ。
平駅と泉駅とがある。
「古臭くつまらない駅名だ」と改称推進派はぶちあげた。新時代に合ったふさわしい駅名に代えようというのだ。
いわき駅「小名浜駅」が候補にのぼった。
平と泉では地元の人間しか分からない。名の通っている「いわき」「たいら」「おなはま」の方が、内外のにんげんにはわかりやすい。
山本暮鳥の詩に「おーい、雲よ、磐城平まで行くんか」という有名な1節があるから、「いわき平」駅でもよいではないか、という文学的な一案もあった。なるほど名案であった。「泉」というどこにでもある名よりも「いわき小名浜」駅ではどうか、といった説も出た。結果からいえば、駅名の改称の動きは住民び対するアンケートの実施で、あっさりと拒否されてしまった。これ以来、新聞は一斉にこの問題について沈黙したが、いわきにとっては自分自身を知る良い機会であった。
駅名改称反対論はいろいろあったが、長く慣れ親しんだ「平」「泉」の両駅名を変えて欲しくない、というのが住民大多数の声であった。
「常磐線は植田から旧浜街道沿いの泉田に駅が置かれる予定だったが、東部の泉が強い誘致運動をした結果現在の位置になった、という。」青木雄千代「ふくしま各駅停車」
これによれば、日本鉄道会社の予定路線では、「泉田」という駅名が実現したかもしれない訳だ。
文明開化の世に、陸蒸気を導入しようという新取の気風を示した「泉」地区の先人に比べて、逆に強固な反対運動を展開して、鉄道開通を拒絶した人々もある。
富岡町と大熊町の付近のJR線を眺めてみると、明治30年当時の鉄道反対の声が、地図の裏からにじみ出てくるようだ。
原発で世界に名を挙げた大熊町は、昭和29年11月1日に二ケ村が合併して誕生した。「大野」と「熊」という事なる二つの地区が一緒になったのは、内的条件ではなく、占領軍政策の一環で、地方自治を促進するための地方自治法(昭和22年)や、自治省八足によって同法の大改正が行われ、町村合併促進法(昭和28年)に押しだされるかっこうでの合併だった。
大熊町発行の「86大熊町のすがた」というパンフレットによれば、
「各位と共に幾多の試練をのりこえ、町民が一体となり努力を続け」(遠藤正町長)という表現があるほど、合併後のギクシャクがしのばれる。
大熊町内にあるJR線の駅は「大野駅」。
「国道から離れているが、大熊町の中心部で県道の交叉するところに駅がある。乗降客の多い明るい駅だ。
駅の東方海岸に県内最初の第一原子力発電所があり、参観者も多い明るい駅だ」
「大野駅前北側の高台に「石田宗茂翁の碑」と刻まれた高さ2メートルほどの石碑がある。大熊村の初代村長だった石田宗茂は常磐線建設に対し賛否が分かれていたのをまとめ、自分の土地を寄付し駅設置に努力したという碑文があり、裏面にはともに努力をした村会議員の名も刻まれている」(前掲書・青木雄千代)
ここでは石田宗茂氏の遺徳よりも、当時の駅開設反対の運動の激しさの方を指摘しておこう。
さて、常磐線は東に太平洋を望みながら走る風光明美な路線であるが、読者処刑がもし夜明け前に仙台駅から上り列車に乗り込んで、大熊町を通過し、次の富岡駅にさしかかる頃には、ずっと東の茫漠たる海原の彼方に、東雲どきの太陽の火球が昇ってくるのを期待するところだが、さにあらず。忽然と西の方から旭が昇ってくるのを目撃してびっくりするという怪奇を体験することになる。
この錯視現象は、常磐線を利用する乗客が体験するものとして有名なものだが、事情をせつめいすると次のようになる。
客車の中の乗客は、方向感覚は常に固定されている。進行方向の右と左の両側が中心者の座標から見た方角に感じられる。南へと走っている列車から見れば、観察者は当然ながら進行方向左側に日が市の日の出を想定しているのである。
その思い込みを突き崩して、旭または夕日が、正反対の窓に見えるので驚愕するという訳だ。
賢明なる読者はもうお分かりだろうが、常磐線は富岡町に入って夜の森駅を過ぎると富岡駅の手前で大きく東へ迂回し、一時ではあるが北に逆戻りするような形で富岡町の中心部を避けて、左右両側の視界が、東西両側の方角の感覚を逆転させてしまうのである。
これが奇怪な常磐線の錯視の原因である。
(1986「政経東北・千年パラダイムの中の浜通り三区)より)