浜通り残酷物語
三区をダメにした風土と歴史
無風のチベット三区
民主主義においては、選挙民以上の政治家は出てこない。
この呪いのような格言が不幸にも言い当たる典型的な衆議院福島三区。
無風地帯ともチベット地帯ともさげすまれ、新幹線からも高速道路からも零れ落ちて、今や発展への方途を失ったばかりか、衰退から滅亡への坂道をころがり落ちつつある浜通り。
こうした現況をよそに、またも衆院選挙で誰もが「この港の予算をつけたのは私でございます」などと、白々しく声高にスピーカーから叫びつづけている。
一体どの道路のことを言っているのか。そそり立つようなコンクリートの現在の万里の長城「常磐線新幹線」は、どこにあるのか。はたまた、モータリゼーションの象徴である常磐自動車道は一体どこにあるのか。三区の政治家は、再び将来の夢の空手形を発行して金バッジを手に入れようというのか。
彼らの選挙カーが通過する市町村の表通りも裏通りも、活気なく沈滞した灰色の屋根をつらねいている現実を見なかったのか。
残酷物語は、ここ浜通りにあった。
(略)
原発労働ぐらいしか働き口のない浜通り地区では、前述のとおり工場進出のための足がない。
(略)
暖房のよく効いている県庁の中で、年ごとに阿武隈地域開発のための「調査」「構想」の「報告書」は、豊かに肥えてゆく。
あぶくまの山々は、また厳寒の冬を迎えるのである。
こう私が書き始めたのは、1986年のことである。ベラルーシでチェルノブイリ原発がふっとんだ都市である。
1984年に初めて南米を訪れて、30歳の遅いカルチャーショックでたちまち昭和の初期に福島県から移民したブラジルの日系一世たちに魅了され、彼等の人生の出自から貧困な時代背景と、野心と辛酸、そして老後の雄大な回顧を必死で聞き書きしてまわった。
最初の一ヶ月間の南米旅行を、一年間にわたって雑誌「月刊政経東北」に売り込んで、連載させてもらった。
浜通りを論評する担当でいろいろと翌年から書かせてもらった最初の記事がこれだった。