未年生れの世良修蔵 高野孤鹿
世良の思出
福島県梁川町の素封家大竹宗兵衛方に当年(昭和六)八十三歳になる老媼「やま」さんがある当主の祖父に縁あって同家の人となり、いとも安らかに余生を送って居るが生れは出羽の庄内。幼少の頃から家庭に恵まれず転々と人手を渡って十二、三歳の時始めて福島は北町の妓楼橘屋に売られて来た。悲しい哉生れ故郷の名も父母兄弟の名も知らないが小池しげよと言って居たと言って居る以下お「やま」老媼さんの談話
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世良修蔵さまの事件の時妾は十九歳。」当事橘屋で「初菊」と名乗って居りました。
橘屋は世良さまの御宿金澤やの東隣りに在って朋輩皆で十五、六人、金澤屋はその時分これより少し渺なかったようです。
朋輩にどんな名の人が居りましたか勿論金澤屋の人の名もさっぱり記憶に御座居ません。
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世良さまは一度も橘屋には御泊りにはなりませんでした。尤も御遊びには前後一遍だけ御出でになりました。其時は二、三人連れだったと思ひますが、誰人が誰人やら判りませんので「何と言ふ人だべー」と聞いて始めて「あの方が世良修蔵さま」だと教へられました御顔付風采これと言って何一つ記憶には残って居りませんが、洋服を御召しになって頭は丁髷で無く山伏の様に一束にさげ紫の打糸で結んで居られました。御言葉は何しろ西の方ですから合間に判ることはあるけれど何仰しゃるのかチットモ判らない、御客様相互の言葉使いは何しろ席が席で別世界の事ですから礼式張ったところはございません。
あの時代「オハラー」と道を長して売り歩いた紅売りの姿はよく見かけました。町の向ひ側と此方側を一人一人オハラーと呼び声立てて来るので「他所に買にゃらんでも彼の人の紅白粉を買へば安いよ」といってよく買ったものです確か二人連れだったと思ひますがそれが「世良さん」だったかなんだかは存じません。勿論私は其方だとは思ひません。
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鮮明とは申されませんが未だ寝ないうちだったかと思ひます「金澤屋で何だべえ、ドタドタして混雑のようだネ」と言って次の朝になって世良さまが殺されなさったと聞き「さうかえ」と皆驚いたような次第です、他の娘さん達と違って身体が自由にならない所に居りますものですからあっちさ行って見ンべーこっちさ行って見ンべーといふ具合に参りませんので何で又殺されなさったのやら一向わからんじまいです
その年は非常に雨が多ふ御座いました。橘屋の二階から北町の道路を見ますと今でもその儘ですが直線に馬頭観音様の前迄見透しになって居ます、「何だべー、気持ちの悪い事ネー、裏の方から水溜のある所に血がにぢんで何だべー」と道路の上を見て気持ち悪がった事を覚へて居ります。
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当時良い所の座敷には一部屋一部屋の角行灯、頭の方に置いて寝ました。刀は刀架けに或は又人によっては枕許に、寝所の枕元にはお盆に茶碗をふせ水を置いたものです。
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