1999年1月号の正月特集に、県の栽培漁業養殖公社の事業の現状レポートを欲しいという社長命令で「ヒラメの海 復活の夢」という原稿を書いた。原発の記事だって、もともと担当なんかしたくかった。放射線地帯が気持ち悪くて行きたくなかったのに、浜通り出身というだけで私の担当に充てられたのだ。大熊なんかに行きたくなかった。
1995年の1月17日の阪神大震災が起きて急遽福島原発の地震対策は大丈夫かと検証してくれ、という社長命令で、外部からの助っ人として私の原発記事担当がスタートしたのだ。
県内の会津やいわきへの取材には5000円の交通費が出たが、相双地方は私の実家が原町なので、地元だからという理由で交通費が出なかった。げんこうりょう原稿料も写真込みなので、専門のカメラマンのいない会社では文章中心の記事なので、レイアウトに力を入れていたカラーふんだんだんのライバル誌に比べて、見た目が地味だ。印刷のキング印刷にはモリサワ中心で、かっこいい写研が少なかったし。
会社のライターの人数が少ないので、外部からのアルバイトのような私にも、毎月の仕事があるだけありがたいのだが、何でもかんでも頼まれるが「企画を出せ」という社長の要望について応じたこともなく、書きたいことだけ書かせてもらったのは楽しかった。ときたま会社からの要望でテーマが決まることもあって、しぶしぶ書いたなかに「ヒラメの海」もあった。
民友新聞OBの編集長は、地元紙の記者ネットワークが欲しかったので頼んだらしい。個人的なつながりに情報を頼ることが目的らしい。ライバル誌は民報から人材補給していた。
毎月の新刊号が書店に出たら、取材で世話になった関係者にお礼替わりに配布ㇽ何冊かの雑誌を貰いに編集部に行き、ゆっくりできる時期の社長との雑談が次回の編集会議のようなもので、会議に出ることもなかったし、社長の個人的方針がそのまま雑誌の方針なのだろう。田舎の雑誌は、社長の個人雑誌みたいなものだった。
1998年の12月の初旬に次号のテーマが決まり、下旬の締め切りが、新年号が年末年始で立て込む印刷所の膨大なチラシ作成で、かなり前倒しで締め切りがタイトだったが、すぐに白河の新規就農者の若い夫妻にインタビューして書きあげ、書斎でできる意外史のネタも県立図書館の知り合いから面白い浜通り劇場組合規則という一枚ぺらものが入手できたのでちゃちゃっと枚数を埋めて、あとはちょっと遠出の大熊町の原発の南となりの温排水を利用した、天下り公社に出向いたのである。
電話でアポを取って、しぶしぶ出かけ、機械的にいつもの2時間インタビューして6ページ600行の記事にした。
取材を終えたら、所長が言った。素性を尋ねられて名乗ったら「そうですか。やっぱり弟さんですか。私は前の職場でお兄さんとは同僚でね」と向こうも詳しく名乗って事情を明かした。麻雀仲間だったという。記事は書きようがある。編集長は「なあんだ。広報みたいな内容だなあ」と、いつもの辛口批評でないので、凡庸な記事をさらっと見逃した。ボーナスの出る社員と違って当たり前だ。正月用の記事でわざわざ力と時間をかけて、恨まれるような内容を書いてもしょうがないじゃないか。もともと県の事業で、温排水を活用だなんて、原発是認を僕はしていないし、なんで大熊なんだ。社員用のボーナスのために膨大な広告を集めた分量に見会った記事のボリュームがほしいという編集方針は目に見えて居る。義務は果たしたんだ。
12年後に、この施設で7人の職員が津波に呑まれて亡くなられた。県職員だったうちの兄貴だって、ここに再就職していたら、危ないところだった。
かつて取材した場所が、心配したとおりの犠牲者を出した。具体的に場所も知っているし中も取材したことがあるだけに、いいようのない妙な気分である。きょうの新聞に被害の様子の写真が載っていた。やっぱり、またあそこには行きたくはない。
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