バブル型不況の系譜
平成不況の闇はますます濃い。失業率もじわりじわりと上がり三百万人を超え、就職戦線は氷河期を越えて絶対真空へ。これが底だ、いや回復への兆しもみえる、変化への胎動だ、と胃袋の痛くなる話題ばかり。
デフレ関連の本が目立ってきた一九九五年あたりから、状況は深刻化し、最近では慢性的に「不況」の文字が目立つが、景気循環から言って次には「恐慌」の文字だけが残る。最近では九九年新年号「エコノミスト」で気になる「バブル型不況」をおさらいする特集も組まれた。
講談社学術文庫の「昭和金融恐慌史」は、昭和二年金融恐慌の基因として、わが国銀行制度の前近代性を説明し、次いで第一次大戦以降、とくに大正九年の戦後景気における熱狂的投機思惑その大反動、さらにはそれ以後の財界の状勢を詳らかにしている。極度に悪化したわが国財界(とくに銀行界)が、わずかのきっかけだけで爆発的にその矛盾を露呈していく過程、つまり昭和二年金融恐慌の勃発とその経過ならびにそれに対する諸措置、さらには直接的打撃について叙述する。
もう一冊、同文庫「昭和恐慌と経済政策」では、出口の見えない平成不況との比較をこころみて、バブル崩壊不況としては大正九年不況と、昭和四十八年~四十九年の石油危機後の不況とがある、と指摘して今日的不況脱却の参考になる。
同書は七○年以降のバブルを次のように説明する。石油ショックの印象が強くてバブル型が意識されないものの平成不況を対比してみると、一九八○年代後半のブームの特色は何よりも急激な円高の結果、石油をはじめとする輸入原材料の値下がりによって企業は十分な利潤を収めながら、物価はいくらか下がり気味だった。円高対策としての金融緩和が長く続いたけれども、輸入品価格の低落のために物価は落ち着いていた。その例外が株価と不動産価格だった。この特殊な資産インフレのもとで、投機も株と土地に集中して進められたが、一般物価を重視する金融当局が引き締めに踏み切るタイミングは遅くなったのである。
以上のバブル崩壊型不況のほかにも、この種の不況が見られなかったわけではない。一九五一(昭和二六)年の朝鮮戦争休戦後の落ち込み、一九六一~六二一昭和三六~一三七)年の設備投資ブーム(岩戸景気)後の不況、古くは日露戦争後の一九○八(明治四一)年不況なども、少なくとも部分的にはバブル型不況の性質を有していた。
第一次大戦バブル
昭和の恐慌と続く戦争への坂道はすでに大正から準備されていた。商品先物、株などのあらゆる分野で投機が投機を呼んだ。それが第一次大戦バブルだった。「エコノミスト」の記事を手がかりに、未曾有のバブル期の日本経済を追ってみよう。
二つの世界大戦にはさまれた時代に、日本経済は、二度の大きな恐慌に見舞われた。一九二〇年恐慌と昭和恐慌(一九二九年)とである。
この二つの恐慌の過程を比べてみると一九二〇年恐慌の方が短期に激しい価格の暴落を記録したことが分かる。「アメリカ発」の世界大恐慌の一環であった昭和恐慌よりも、一九二〇年恐慌が鋭角的な価格の暴落を伴った理由は、この恐慌が第一次大戦期からの「バブル」を伴う空前のブームの崩壊によるものだったからである。このときのバブルは、なぜ、どのようにして発生したのか。
第一次大戦前の日本経済は外貨の不足に悩み、緊急政策が続けられていた。潜在的な成長力が、投資財への需要が輸入拡大を生む一方、日本の産業の国際競争力は弱く、輸出は伸び悩んで、輸入超過が続いていたからであった。第一次大戦の勃発はこの閉塞感を一挙に払いのけた。輸入圧力が消え、海外市場では日本の競争相手が姿を消した。戦場になったヨーロッパの主要な国々が、戦時動員のために輸出どころではなくなってしまったからであった。軍需向けの性格の強い金属製品や、輸入に頼っていた染料・薬品などの化学製品をはじめとして、需給が逼迫して価格が急激に上昇していった。競争の脅威がなくなった国内企業は売り上げを伸ばし、空白の生じた市場に新規参入者が殺到した。
一方、当時の労働運動の力は弱く、価格の上昇による売り上げ増加は企業の利益に直結した。この労働に対する分配率の低下は、企業の利益を一段と高め、ブームを加速することになった。株式の配当率が五割を超えることも珍しくはなかったから、株式市場は活況を呈した。高い企業利益を背景に「成り金」と呼ばれた成功者が続出した。企業利益の増加は、本来であれば、企業の拡張計画に結びつき、これによって逼迫した商品市場に対する追加的な供給力が増加するという循環をもたらすものであった。実際、企業の新設拡張計画はこれまで例をみない高い水準に達した。
肝心な機械設備が不足
ところが、この成長の循環は、設備投資の大幅な遅れによってとぎれてしまった。工場を拡張するにしても、新規の事業を起こすにしても、資金を調達して機械設備を購入しなければならなかったが、その肝心の機械設備が著しく不足していた。アジア向けの輸出が急増した綿工業では、それまで紡績機械を輸入に頼っていたために、工場の拡張が一向に進まなかった。多くの「船成り金」を生んだ海運業から、造船企業に対する船の注文が殺到したが、造船用の鋼材が不足していた。鉄鋼の供給能力が増加せず、大戦の前半期には中立国であったアメリカから原料鋼材の半分を輸入しなければならなかった。ブームのなかで資金を集めることは簡単であった。株価は上昇していたし、輸出超過となったために通貨供給量は増大し、金融市場は金利が低下していたからである。しかし、資金を集めても現実に工場を建設することはできなかったから、企業の側には、多額の資金が手元にだぶついてしまうことになった。「金あまり」が発生したのだ。
余裕資金は、高騰を続ける株式や商品の先物などに投入されることになる。こうして投機的な株式・価格の上昇が始まり、「浮利」を追いかける「バブル」が進行した。
このようなブームは、一九一八年秋に戦争が終結するとともに、鎮静化に向かうかにみえた。実際、一九年春ころまでは、軍需関連品の価格下落などで、景気は沈滞した。
ところが、その後約一年にわたって大戦中を上回るような激しいブームが訪れた。
大戦中の経済発展を「元の木阿弥」に戻さないために、政府は鉄道などの社会資本の拡充や高等教育・専門教育の拡充などの積極的な施策を打ち出していた。このような政府の積極策の下で、消費需要が盛り上がり、大戦中の軍需・輸出主導から戦後には民需・内需主導のブームが展開した。民需・民需の拡大の背景として、以前に比べて強くなった労働運動などの影響で、大戦末期から賃金が上昇を続けていたことが大きな意味をもっていた。内需の拡大のために、綿糸の価格が高騰し、政府は物価対策の見地から綿糸の輸出を禁止する措置をとらなければならないほどであった。また、大戦中からの産業発展により都市への人口の集中が進み、住宅不足から土地価格の上昇が進むなどの新しい動きが目立つようになった。
こうして発生した戦後のブームは第一次大戦期を上回るような激しい価格の上昇を伴った。戦争が終わって輸入ができるようになり、機械などがようやく陸揚げできるような環境が整いつつあったが、ただちには供給の増加には結びつかなかった。価格の上昇による売上高の増加のなかで、企業の「金あまり」は続いていた。輸入が増大し、大戦中とは異なって貿易収支は、入超基調に転換していたが、政府は積極的な拡張政策を実施するために金融を引き締めようとはしなかった。
そのため、米価の上昇を背景に懐具合のよくなった上層の農民たちまでもが、株に手を出すなど、投機的な利益を得ようとする動きが日本全体に蔓延した。商品先物、株式、土地などあらゆる分野で「投機が投機を呼ぷ」バブルであった。
あまりに激しい物価上昇のために一九年の秋から政府は物価安定の見地から引き締め政策を実施せざるを得なくなった。民需品の輸出禁止や暴利取り締まり、そして金利の引き上げなどが行われた。ブームの背景の一つとなった賃金の上昇と、金融引き締めによって、投機的な企業行動はその基盤を失っていくことになる。こうして、一九二〇年三月に東京株式市場の暴落をきっかけとして日本経済は激しい「バブル」の崩壊と恐慌に見舞われることになった。
市場での激しい価格暴落は先物取引の思惑を完全な失敗に終わらせるものであった。手持ち商品の価格の暴落で企行の資金繰りは一挙に悪化した。有力銀行は資金の回収に走り、リスクをおそれて融資に「二の足を踏む」傾向が強かった。鈴木商店に対する台湾銀行の巨額の融資など、各銀行は不良債権化しつつある貸し出しの重荷のために慎重にならざるを得なかった。
このような状況を、政府・日本銀行は、投機の崩壊による経済の健全化の過程と見なし、滞貨金触を中心とした救済融資を積極的に行った。この政策の背景には、日本発の恐慌は起こらないとの判断があった。商品市場の暴落が進んだ四月にはまだ世界経済は堅調を維持していた。日本銀行は、手持ち品の暴落による資金難を救ってやれぱ、世界的には戦後景気はまだ続くから、これ以上景気が悪化することはないと判断。
実際、滞貨金融を中心とする救済融資には、貸出期間を経過して完全に返済されたものもあり、生糸市場に対する救済措置のように市価の維持のために買い上げた在庫を二年間かけて販売し、利益が上がったものもあった。
市場の暴落を放置すれば、企業の倒産や失業の増大などもっと大きな混乱が一挙に発生したかもしれなかった。このような社会的な摩擦を防ぐことは、政府の役割として重要であった。しかし、それが有用であるためには、摩擦を小さくしながら破綻処理が進められることが必要であった。全般的にみると、この融資は、整理・回復のための時間稼ぎというよりも単なる延命措置という側面が強かった。それはこの救済融資がさまざまな問題点をもっていたからであった。何よりも、前提となる景気の見通しが全く誤っていた。二〇年六月ころから世界経済は景気後退局面に入り、回収できない救済資金の貸し出しがかなり残った。それは、貸し出しが「時の政権と結びついた政商の破綻救済的政略的融資が少なくなかった」という「審査の甘さ」のためでもあった。
こうして「最後の貸手」である中央銀行が救済機関化したとき、日本銀行が保証して民間金融機関から貸し出された融資の勘定書には、民間金融機関では処理しきれないような不良債権の山が書き込まれることになった。
「バブルの後始末の失敗」の後始末
そして、関東大震災時の「震災手形」による救済措置が、この不良債権の処理を一層不透明にし、問題を先送りした。金融恐慌は第一次大戦期の「バブル」の後始末の意味をもったが、より正確には「バブルの後始末の失敗」の後始末であった。
市場の投機的な変動を抑えることあるいは完全に飼い慣らすことは不可能なことであった。
いったん暴走しはじめた市場は積極的な悪循環から「バブル」となりあるいは逆に「恐慌」となった。そして、これへの対応に失敗したとき恐慌から七年に及ぶ長期の慢性的な不況と、二七年の金融恐慌が不可避だったのである。(エコノミスト)
昭和恐慌の谷底で
中村隆英著「昭和恐慌と経済政策」を手がかりに、昭和恐慌をなぞってみる。
昭和恐慌の谷底は昭和六~七(一九三二~三二)年だったが、それは世界恐慌の前半期に重なっている。
その直前の一九二〇年代は、世界的にみて第一次大戦後の金本位再建の時期に当たっており、物価は下向きの傾向にあった。とくに農産物は世界的な生産過剰のために二〇年代後半から価格の低下がつづき、不況がつづいていた。
世界の金融はアメリカからのドイツヘの投資によって支えられていた。その資金でドイツは英仏に賠償を支払い、英仏はアメリカに戦時公債の元利を支払うという循環が成り立っていた。二八年、アメリカの株価が高騰して資金の引き揚げがはじまると、ヨーロッパの金融はたちまち逼迫した。
日本の一九二〇年代も、世界の潮流の例外ではなかった。物価、とくに農産物価格の低落、度重なる金融不安、そして打ち続く銀行の破綻などが、この時期を支配していた。
ただし、この時期には、目立たなかったが、水力発電事業が勃興して、それに伴う中小企業の電動機の導入、電気化学工業や電気冶金工業の発展、機械工業や電気機械工業の技術進歩など重化学工業化が進展して、次の飛躍が準備されていたのも事実であった。それによって、日本は当時世界最高の経済成長を成し遂げたのである。
日本が、立ち遅れていた金本位復帰(金輸出解禁)を決意したのは、昭和四(一九二九)年七月、浜口民政党内閣が成立し、井上準之助が蔵相に迎えられたときからである。
井上蔵相は、旧平価による金解禁後の国際競争の激化に備えて、財政支出を削減し、金利を引き上げ、国民に消費節約を訴えるなど、強烈な引き締め政策を実行した。
このため、日本経済は二九年秋から急激な景気後退に見舞われた。米国にはじまる不況の波及はその直後のことである。昭和恐慌は、金本位復帰のための引き締め政策と、海外の恐慌という二重の原因によってもたらされたのであった。この恐慌の特色を一言でまとめれば平成不況とは全くちがった価格恐慌だった。
ほとんどの銀行が壊滅
後世その見通しの正しさが認められた高橋亀吉・森垣淑共著の古典的名著「昭和金融恐慌史」は、昭和五年から始まる昭和恐慌を、それ以前の昭和二年の金融恐慌に焦点をあて、わが国最悪の経済的災厄であると看破。つまるところ次のように漸くできる。
昭和二年の金融大恐慌は、全国にわたって、ほとんどすべての銀行が玉石混淆、預金取付の大津波に襲われた、というきわめて熾烈大規模のもので、わが史上かつてない経済大異変であった。しかもこの金融大恐慌は、その直前にまず経済恐慌制が勃発してそれが金融恐慌に発展した定型的性格のものではなかった。
当時のわが経済界は、少なくとも表面的には平常そのものであった。にもかかわらず、当時、金解禁準備として議会に提出された震災手形処理法案の審議における、政争的暴露戦と与野党間の政治的駆引きとが発火点になって、突如一大金融恐慌が誘発された、というきわめて特異な性格のものであった。
この金融大恐慌の根底には、過去における銀行内容の悪化の累積が、すでに破綻暴露の限界線上にあったことを示唆している。すなわち昭和金融大恐慌史は、その誘発原因よりも、その遠因なり、近因なりの真相の究明が最も重大なポイントになる。当然に、その恐慌の経緯も恐慌対策も、また恐慌のもたらした影響も、普通の金融恐慌の場合とは著しく異なるものを包蔵している。昭和金融恐慌は、すでに大正時代から積み上げられた原因の上に準備されていたことが判る。
また単に経済的視野からのみ見る視点だけでは不十分で、政友会と民政党の間の政権争いであり、底流には台湾銀行をはじめ各銀行の経営内容の不健全さがあり、また鈴木商店をはじめとする問題企業との腐れ縁があって、いくつかは根本的な整理が必至であったにせよ、この時点での財界の膿があふれるにいたったのは政治的なタイミングのゆえでもあった。
こうした問題意識のもとに昭和金融恐慌を分析するに、その基因は、
1 第一次大戦にわが国経済が質的にも量的にも飛躍的発展をとげたにもかかわらず、
2 銀行制度そのものが依然として前近代的であり、多大の欠陥を内蔵したものであった。
3 右の結果、大正八~九年の世界的戦後景気に際し、過度の熱狂的投機思惑に走り、その反動として九年の大反動を招来したが、それに対処するに、官民いずれも的確な判断を誤り根本的整理を怠り、一時的な弥縫に汲々として、次の好景気により救われるとする僥倖をたのむ政策をとった。しかし、わが国経済の病根は根深く、ために弥縫的救済措置はむしろ経済をいよいよ衰弱さす結果をもたらした。
加えて、大正十二年の関東大震災は、わが経済に痛烈な打撃を与え、政府の政策の不適切さもあって、以後円為替相場は激動を見せ、この面からもわが国経済は多大の打撃を蒙ることになった。企業の利潤率は大幅に低下し、前近代的銀行制度のために銀行経営は不良化、固定化し、大銀行のなかの少なからぬものを含め、わが国銀行は破綻暴露の限界線上にあった。
こうした基本的事情において、金解禁準備として、わが国経済の癌の一つであった震災手形の処理が実施せられることになったが、そのための法案が議会に上程されると、その真意に論議が集中され、実情が明るみに出されると、国民に多大の衝撃を与えずにはおかなかった。かくして、蔵相のちょっとした「失言」は導火線の役割を果すことになり、全面的な金融恐慌に突入したのだ。
県内銀行は全滅
福島県内では、有力銀行だった福島商業銀行が昭和二年に休業に追い込まれ、大動揺がはじまった。
続いて昭和三年に福島銀行が支払い停止となり、相馬銀行、信達銀行が解散、破産。磐城銀行が休業、四倉銀行が休眠状態。浪江銀行は七十七と合併。安達実業銀行も休業。福相銀行は解散の憂き目をみた。小高商業銀行は新規取引停止。平銀行が休業し浜通りの地元銀行はほぼ全滅した。そして年末には福島貯蓄銀行も休業。白河商業銀行も休眠状態になった。県内銀行の親銀行というべき第百七銀行も休業。本県における金融恐慌のピークを迎える。
昭和四年に第百一銀行新規取引停止。昭和五年、郡山合同銀行休業。昭和六年、磐越銀行破産二本松銀行支払猶予、須釜銀行休業、白河商業銀行支払制限、須賀川銀行支払猶予、新山銀行免許取り消し。
金融恐慌で福島県を代表する銀行がすべて消滅したのは、大戦後の本県金融界が養蚕業の激動で極度に圧迫されたという特殊事情のため、経営内容が悪化したのに、経営者にそれを整理する近代的経営能力に欠けていたからだという。(「福島県金融経済の歩み」)
もう一つ、銀行動揺をことさら烈しくした要因に、県内主要新聞による暴露合戦がある。当時の銀行は政友会と民政党の政党色に塗り分けられており、憲政系の福島毎日と政友系他二紙は、内部暴露や相手方銀行への誹謗中傷を繰り返し、預金者の不安を煽り取り付け騒ぎを大きくした。政争とマスコミのセンセーショナリズム。これもまた日本の恐慌をそのままなぞったのである。
経済復興の突破口を求めて、日本は政党政治もかなぐり捨てて中国大陸に軍隊を送り込み、その後の雪だるま式の戦争への坂道をころげ落ちて行く。その結果を現代の我々は知っている。いつか来た道に迷い込まぬために、その道を振り返ってみた。最初の「バブル」処理「不況」処理の不手際が、積み重ねられて行く道の、今を起点にだけはしないためにも。